典韋と言えば曹操配下の豪傑中の豪傑。筋骨隆々な肉体をしており、威圧感も抜群の高身長192㎝のスキンヘッドで――というのは、某ゲームのお話ですね。とは言え、やはり典韋と言われると豪傑、というイメージはあるかと思います。
ですが実際の典韋はどれくらいの豪傑っぷりなのでしょうか?そこで典韋のことについて調べていく内に、ちょっと色々と考察してしまったのが今回のお話です。
この記事の目次
曹操に仕えた武将、典韋という人物
典韋が曹操に仕えていたのは有名かと思いますが、その経緯含めておさらいいたしましょう。典韋は友人のために敵討ちを手伝い、仇の首を持って市場に赴くと恐ろしくて誰も近づけなかったというエピソードを持っています。その後は張邈に仕えるも揉め事を起こして脱走、そして誰も持ち上げられなかった牙門旗を持ち上げたことで夏候惇が部下に引き抜きました。それ以降は曹操の元でその力を奮うことになります。
典韋ファン垂涎エピソード・十歩
そんな典韋の超有名エピソードと言えば「十歩」ではないでしょうか。曹操と呂布との戦いの最中、追撃してきた呂布軍に対して典韋は短い戟をたくさん持つと部下を立たせて
「追手が十歩の位置に来たら声を上げろ」
と指示。追いかけてきた呂布軍が典韋から十歩の位置に来ると部下は「十歩です!」と叫びます。すると典韋は手持ちの戟を投げつけて敵を倒す、敵が十歩に、これを繰り返し、見事呂布軍を迎え撃ち、追撃を止めさせるまでに至りました。パワータイプに見えてテクニカル&スタイリッシュ!この逸話は凄くカッコいいですよね!
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典韋のパワーが唸るエピソードの数々!
もちろん典韋にはパワータイプの逸話も色々と残っています。有名な所では、愛用したのは大きな双戟であり、その双戟に関しても「一双戟八十斤を提ぐ」と囃されたと言います。八十斤は今の重量に変換すると約18㎏、この時点で典韋の底知れぬ力が窺い知れるというもの。
この八十斤の双戟かどうかは分かりませんが、曹操と張繡との酒宴の席では一尺ほどの大野を持って警護していたと言い、張繡の兵たちはその典韋の様に恐れをなしたとも……正に鉄壁のボディーガード、といった振る舞いですね。しかし、この張繡と曹操との諍いが、典韋の行き先に暗雲を立ち込めさせることになるのです。
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涙無くしては読めない、忠臣・典韋の立ち往生
曹操と張繡は仲違いし、張繡は謀反を起こして曹操を襲います。曹操を逃がすべく典韋は部下たちと共に、多数の張繡配下の兵士たちを相手に一歩も引かぬ奮戦を繰り広げるのですが……多勢に無勢、部下たちは皆死んでしまい、典韋もその最期が近付いてきました。
典韋は最期に敵に突進し、数人を殺し、大声を上げて敵を罵りながら亡くなったと言われています。三国志演義ではこれを脚色し、最期は敵を前に一歩も引かぬ「立ち往生」をしたとされていますね。どちらにせよ、主君を守っての壮絶な最期には違いはないでしょう。
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忠臣・典韋の乗せられた典韋伝とその謎
そんな典韋の記録は、もちろん魏書にも記されています。典韋がいなければ後の曹操は無かったかもしれないのですから、それも妥当と言えるでしょう。因みに許褚、ホウ徳と同じ巻に記録されていますよ。
で、ここで典韋の身長が分かる……と思うかもしれませんが、そうは簡単には行かず。典韋の体格に関しての情報は「立派な体格をしていた」としか記されていないのです。許チョには180㎝オーバーであるように記録されているのですが、典韋の身長に対しての記載がないのです。そして見ていると、もう一つの疑問が出てきました。
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典韋の身長の謎が、あの謎に繋がっていく
先ほど名前が出ましたので、同じ巻に記されている二名の巻に少し触れましょう。例えば許チョの巻は「許チョ、字は仲康」という出だしで始まります。ホウ徳は「ホウ徳、字は令明」で始まっています。当然と言えば当然なのですが、これに対して典韋は「典韋」という出だしで始まるのです。つまり豪傑であり、曹操軍でも並外れた武将であり、曹操を命を賭して逃した典韋。その典韋は、字さえ残ってないのです。そこで筆者はある人物が思い浮かびました、蜀書に記録されている関羽の子、関平です。
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典韋と関平との意外な繋がりが読み取れた!?
関平もまた関羽の子でありながら、字が判明していません。ただし関平の場合は記録が少なすぎるため、
「字もなく、記録もなく、樊城が関平の初陣ではないか?」
「もしかしたら関平は未成年だったのでは」
という考察もされています。成人してから字を名乗ることも考えれば、関平の字が記録されていないのも納得です。そこで典韋も、実は未成年だったのでは?と閃きを得ました。曹操は我が子の死以上に典韋の死を嘆き悲しみ、遺体を取り戻して手厚く葬り、通りかかる度に典韋の死を悼んだと言います。
それもこれも、まだ典韋が若く、これからが期待できる青年だったからでは……という想像をしてみましたが、どうでしょうか。そうなると典韋の身長が記録されていないのは、当時の基準からすれば「まだ大人になる前だからもっと成長する」と思われていて、さほど典韋の身長を記録する必要性がないと思われていた……という想像をしてみました。幼典韋説、皆さんはどう思いますか?派生作品だと、どっちかというと許チョの方が言動が幼かったりするように思いますが、新しい典韋の姿、筆者はありだと思います。
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三国志ライター センのひとりごと
まあ典韋が字を名乗るような身分ではなかった、とも考えられるのですが、敢えて今回は別の方向から考えさせて頂きました。曹操は後に郭嘉を失った後でも、郭嘉が若くして亡くなったことを悼んでいましたし、典韋もまたそういう年齢だったのかな、と。
そう思うと曹操も嘗て、自分の失態で先行き明るい若者を失ったのですね……という所でふと閃くのが夷陵の劉備。ふとした英雄たちの共通点に想いを馳せつつ、今回は終わりにさせて頂きます。どぼーん。
参考:魏書典韋伝
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