中国で最古の笑い話集とされている『笑林』は、三国志の魏の学者・邯鄲淳が編纂したものであると言われています。
内容はシュールで面白く、また、当時の世相を感じることもできるため、三国時代の文化に関心のある方にぜひおすすめしたい本です。本日は、『笑林』と、その編者といわれている邯鄲淳のご紹介です。
原本は散逸! 他の書物に引用されたものが残っている
歴史書の『隋書』や『旧唐書』『新唐書』にある書籍目録には、邯鄲淳の『笑林』が記載されています。それらによると、全部で三巻の本だったようです。その後、原本は散逸してしまい、現在読むことができるのは『太平広記』『太平御覧』『藝文類聚』などの本に引用されていた部分です。原本は残っていないけど他の本に引用された部分だけ残っているよ、という本って、けっこう多いですよね。
書法に通じ古代文字を書ける高名な学者
『笑林』の編者の邯鄲淳はどのような人だったのでしょうか。姓は邯鄲、名は淳、またの名を竺、字は子叔。潁川郡出身。
董卓やその残党が長安を騒がせていた頃に南方に避難し、荊州の劉表のもとにいましたが、劉表が亡くなり跡継ぎの劉琮が曹操に降伏すると、曹操に召されました。三国志王朗伝の注釈に引用されている『魏略』では、儒学の宗家として下記の7人の名前が挙げられています。
董遇、賈洪、邯鄲淳、薛夏、隗禧、蘇林、楽詳
当時は後漢末期の戦乱で学問がすたれ、国家が認めた儒教の経典のテキストを刻んだ石碑も欠けてしまい、太学に入ってくるのはシャバでの義務から逃れるためのやる気のない学生ばかり、先生も教える能力のない者ばかりという状況だったそうです。そうした時代に、この7人のような人たちが学問を復興させたのですね。で、『笑林』編者の邯鄲淳もその一人だった、と。
三国志劉劭伝の注釈に引用されている『文章叙録』では、書の名手として邯鄲淳、衞覬、韋誕の名前が挙げられています。そこに引用されている『四体書勢』の序文にはこうあります。
秦が篆書を用い、古い書籍を焼いてしまったため、古文(古い時代の書体で書かれた書物)は絶えてしまった。
漢の武帝の時代、魯の恭王が孔子の邸宅を解体した時に『尚書』『春秋』『論語』『孝経』が出てきたが、当時の人々はすでに古文というものの存在すら知らなかった。
人々はこれを「科斗書」と呼び(科斗はオタマジャクシ)、漢の時代には しまいこまれており、人目に触れることもまれだった。
魏になって古文を伝えた者は、邯鄲淳が最初である。
この文の後にも邯鄲淳への言及があり、それによると、邯鄲淳は様々な書体に通じており、その書の精密にして条理あるところには、かの有名な蔡邕も及ばなかったそうです。
曹植と意気投合
三国志王粲伝の注に引用されている『魏略』には次のような話があります。曹操が荊州を手に入れた時、かねてより名を聞いていた邯鄲淳のことを召し出して会見し、曹操は邯鄲淳をとても優れた人物であるとして敬いました。曹操の息子の曹丕はこのころ広く儒者を求めていたところで、邯鄲淳の名前もかねてより知っていたので、邯鄲淳を自分の文学の官属に入れたいとお願いしました。
たまたま弟の曹植も邯鄲淳を求めており、曹操は邯鄲淳を曹植のところへ行かせました。曹植は邯鄲淳を得てとても喜んだものの、招き入れて席をすすめたきり何も話しません。季節は暑いさかり。曹植は従者を呼んでおもむろに水浴びを始めました。それが終わるとおしろいを塗り、頭をむきだしにして (髪をむきだしにしておくことは裸同然の破廉恥スタイル)、 肌脱ぎになり、異民族のように五椎鍛を踊り、ジャグリングや撃剣をし、役者が語る小話数千語を語りました。そうしてこう言いました。
「邯鄲先生、いかがでしたか?」これが終わると曹植は衣服を身につけ威儀を整え、天地創造から学問、政治、軍事にわたる様々な話を語り合い、邯鄲淳と意気投合。邯鄲淳は曹植を大絶賛し、知り合いに曹植のことを「天人だ」と語ったそうです。当時、曹操の跡継ぎはまだ決まっておらず、曹操の気持ちはにわかに曹植のほうに傾きました。邯鄲淳がしばしば曹植を褒め称えたので、曹丕は面白くありませんでした。
曹丕が皇帝になって運命が暗転
邯鄲淳は曹植のサロンでぶいぶい言わせていましたが、曹操の跡継ぎが曹丕に決まると運命に影が差し始めます。曹丕は皇帝になると、邯鄲淳を自分のところへ呼び寄せました。『藝文類聚』三十一巻に「魏邯鄲淳答贈詩」という詩が載っており、「贈呉処玄詩」とも呼ばれていますが、これは邯鄲淳が曹植のもとを離れる時に仲間に送った別れの詩です。儒者らしい古風な体裁の四言詩で、内容は次のようなものです。
曹植様に終生仕えるつもりだったが曹丕の命令には逆らえないからいやいや行く。
行っても冷や飯を食わされることは目に見えている。我々の一派は敗れたのだ。
でもできることを頑張っていればそんなに悪いことにはならないさ。君は頑張れよ。
曹丕は邯鄲淳を博士給事中にしました。さほど高い役職ではありません。邯鄲淳が「投壺賦」千余言を奏上すると、曹丕はよくできた作品であるとして帛千匹を与えました。おそらく曹丕の考えとしては、できる奴を曹植から引き離したかっただけで、学識に対しては一定の敬意を払いつつも通り一遍の対応だけして放っておこうというというつもりだったのでしょう。この頃邯鄲淳はすでに九十歳くらいのおじいちゃんで、その後の記録はありませんが、おそらく曹丕のところでは特に面白いこともなく、間もなく亡くなったのでしょう。
三国志ライター よかミカンの独り言
高名な学者の邯鄲淳が笑い話集『笑林』を編纂したのは何故なのでしょうか。『笑林』はシュールな笑いの中に世相への諷刺が垣間見られるため、意外に真面目な政治的な書物であるのかもしれません。曹植が邯鄲淳の心をつかむために大道芸のようなパフォーマンスをしたのは、もしかすると邯鄲淳の批判精神を理解していることを行動で示したのかもしれませんね。
『笑林』の内容は他の記事で紹介させて頂きますので、ご興味のある方はそちらもぜひご覧下さいませ!
参考文献:
竹田晃・黒田真美子 編『中国古典小説選12 笑林・笑賛・笑府他<歴代笑話>』明治書院 2008年11月10日
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