蜀の丞相諸葛亮と魏の公子、曹植、直接に会う事は無かった二人ですが、
聞こえてくる言論を通じて、お互いに意識し合っていました。
二人は性格が反対であったようで、曹植の書いた詩に孔明が反論したりしています。
それは1800年前の言論バトルでした。
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この記事の目次
曹植光武帝を論じて激白、雲台二十八将はポンコツだ
南朝梁の元帝蕭繹が著わした金楼子の巻四「立言篇」には
魏の曹植が光武帝について言及した論光武という文章が納められています。
それによると曹植は漢の高祖と光武帝を比較してこう言ったそうです。
曹植「漢の高祖に比べて、光武帝は遥かに才能が豊かであった。
高祖は韓信や周勃、陳平や張良のような功臣のお陰で天下を獲れたのであり
その天下は重臣たちの手によるものだと言えよう。
一方の光武帝は、何から何まで自分でやってしまい、重臣をあてにしなかった
だから雲台二十八将と言えども、前漢の建国の功臣には及ばないだろう」
この曹植の評論、当時は誠にごもっとも、流石は公子様と賞賛されました。
ただ、一人、秦嶺山脈の向こうで政務を執る諸葛亮を除いては
若造、考えが甘いぞ!by諸葛亮
魏から伝え聞いた曹植の論光武、諸葛亮は気に入らないのか、
早速反論の文章を書いています。
「曹植の文は、つまりは光武帝の優秀さを讃える気持ちから出ているようだが
その為に雲台二十八将を貶めている事については頂けない
二十八将の忠貞知勇を詳細に見るに下は馬援に至るまで張良や陳平に劣るものではない
では、どうして、張良や陳平の活躍が派手に見えるのか?
それは高祖がウッカリもので失敗が多く、張良や陳平はそのフォローで、
大車輪で働いているからである
諺にも、火災を予防する者は賞賛されず、火災を消す者は賞賛されるとある。
光武帝の才能は天性で、少しもミスがなく二十八将はその後始末で
働く必要がなかったのである。
ゆえに諸将は力を合わせて光武帝と共に天下を獲ったのであり、
決して無能であったわけではない」
孔明の主張では、高祖はウッカリばかりで、韓信や陳平、張良、簫何は
その後始末をして大活躍をしたから派手で目立つが、
光武帝は、ウッカリがなく水も漏らさない手腕だったので、
二十八将は、目立つ活躍の場が無かったのだと言っているのです。
雲台二十八将は馬援に至るまで光武帝の考えと同じ
また諸葛亮は、光武帝は軍議の最期には馬援に意見を求めているが、
馬援の回答は常に光武帝と同じであった事を引き合いに出しています。
この一点を持ってしても、雲台二十八将は、光武帝に劣らぬ名臣揃いだが
光武帝がヘマをしない(火事を未然に防ぐ)ので、ヘマばかりの高祖に比べ
活躍が目立たないと結論づけたのです。
この意見が、当の曹植に伝わったかは定かではありません。
しかし、曹植の評論は伝わったので逆もまた然りではないでしょうか?
「それ位、わかってらい、ちょっと端折っただけなのに、
偉そうに批判しやがって」
もしかすると曹植は、そのように思ったかも知れません。
軍を率いて孫権を捕らえ、孔明の首を斬る!
また、曹植は陳思王になってから、
甥の曹叡に対して求自試表という詩を贈っています。
求自試表は「俺を使って下さい」という意味だと思いますが、
その長い漢詩には衝撃的な文字があります。
雖未能擒權馘亮(未だ孫権を捕らえず、諸葛亮の首を斬らずと言えど)
陳思王、曹植は自分が軍を率いて、蜀と呉を討伐して、
孫権を捕虜にし、諸葛亮の首(あるいは耳)を斬って手柄を立て
史書に名を記さないと生まれた甲斐がないので、
どうか自分を使って下さいと曹叡に懇願していたのです。
詩文において不朽の名を残した曹植ですが、彼は本来武闘派であり
武人になりたがり、詩文なんか趣味だと吐き捨てていて、
戦で手柄を立てる事を本望としていました。
結局、幽閉状態は解除されず曹植は失意の中で酒の害に倒れる
悲劇的な結末を迎えるのですが・・
三国志ライターkawausoの独り言
しかし、曹植何気に、孫権と諸葛亮と言って劉禅を無視してるんですけど
また、孫権は捕虜にするのに、諸葛亮は首を斬るという表現を見ると
論光武で孔明が加えた批判がシッカリ曹植に届いていたのかな?と
ちょっと穿ってみたくもなりますね。
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