あらゆる智謀によって蜀に勝利をもたらした諸葛亮。彼については内政においてもその力を発揮したり天文や天候にも明るかったという逸話が残っていたり、様々な物を発明したという記録が残っていたり、そのマルチプレイヤーぶりが話題になることが多々あります。
当時主流であった儒教に傾倒していた頭でっかちの学者たちでは成し得ないことを成し遂げていた彼の多才ぶりには本当に驚かされますよね。実は彼は儒教に限らず、他の思想にも通じていたのではないでしょうか?今回は、諸葛亮が特にどんな思想を尊重していたのかについて分析していきたいと思います。
田舎で晴耕雨読…道家?
若かりし頃、彼は荊州のド田舎で梁父吟を口ずさみながら晴耕雨読の日々を送っていました。誰かに仕官することもなく、あばら家に住んで自由気ままに過ごす彼の生活ぶりは、さながら無為自然を重んずる道家のよう。しかし、梁父吟を声高にうたっているくらいですから、いつかは理想の主君に仕えて人の世をどうにか正しい方に導きたいという願いがあったはず。このことから、諸葛亮は別に道家の思想を追い求めていたわけではないということが窺えるでしょう。
すぐれた智謀の数々…兵法家?
諸葛亮といえばやはり戦において見せる優れた計略の数々。特に、『三国志演義』での活躍ぶりには胸を熱くさせられますよね。その智謀の根底にあるのは、やっぱり兵法書ということで、「諸葛亮は兵法家…?」と思う人も少なくないでしょう。しかし、その当時戦をするのに兵法書を読まない者などいなかったでしょう。また、諸葛亮は従来ある兵法を駆使したり、その裏をかくような策を練ったりすることはあっても、新しい兵法を生み出す努力をしたわけではありません。
このことから、諸葛亮が兵法家と思うのは時期尚早なのではないでしょうか。
信賞必罰!やっぱり法家?
諸葛亮といえば、「泣いて馬謖を斬る」という言葉が有名ですよね。諸葛亮は街亭の戦いで自分の指示に背いたことにより蜀を敗北に導いた愛弟子・馬謖を軍律に従って泣く泣く斬っています。このように、私情を一切はさまずに信賞必罰の信念のもと政治や軍事を切り盛りした諸葛亮は法家を重んじた人物とも言われています。また、蜀の二代目皇帝として即位した劉禅には、法家の代表的な思想書である『韓非子』を教科書として献上しています。
こういったことからもやっぱり法家の思想を大切にしていたと思われる諸葛亮ですが、彼が法家思想に傾倒していたとは言い難いのではないでしょうか。なぜなら彼は、法を大切にする一方で、儒家の思想ともいえる礼や道徳についても大切にしていました。おそらく彼は法家を重んじすぎたが故に滅んだ秦王朝と儒家を重んじすぎたが故に滅んだ漢王朝、その両方を反面教師とし、法と道徳の両立を目指していたと考えられます。
人をあっと驚かせる発明の数々…実は墨家?
諸葛亮は様々な物を発明したことでも知られていますよね。最も有名なのは四輪車ですが、上腕を守る袖がついた甲冑・筒袖鎧や矢を連射できる弩・元戎、一輪の手押し車といった戦場で役立つあらゆる道具を発明。
また、更に戦場で栽培させたという諸葛菜と呼ばれるカブや諸葛亮が字を知らない者たちの教育に使ったという紙芝居、南蛮の民に教えたという織物・諸葛錦まで発明したと言われています。他にもその真偽については議論がなされるところですが、諸葛亮の発明とされるものは数多く存在。
三国時代の発明王ともいえる諸葛亮ですが、彼がこれほどまでに多くの物を発明したのは、墨家の思想が影響しているのではないかと考える人もいるようです。兼愛という言葉で有名な墨家ですが、実はプラグマティズム、すなわち実用主義ともいえる側面を持っています。墨家の実用主義は、諸葛亮の発明の源泉となっていたのではないかというのです。
しかし、墨家は敢えて敵を討つために道具を作るのではなく、守りの戦のために道具を作ることを奨励しているのであり、諸葛亮はその真逆をいっているように感じられます。ただ、諸葛亮は漢王朝を再興させるべく戦っていたため、その全ての戦を守りの戦ととらえていたと考えることもできるでしょう。墨家自体は秦王朝が中華統一を果たした後に滅んでいますが、その思想が記された『墨子』を諸葛亮は読んでいたのかもしれませんね。
三国志ライターchopsticksの独り言
諸葛亮があらゆる面でその才覚を発揮できたのは、儒教以外にもあらゆる思想書を読んでおり、それぞれの良いところを取り入れていたからなのではないでしょうか。彼のその柔軟性が蜀を魏や蜀に負けない強国たらしめたのでしょう。
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