維新の三傑の一人として、唯一長州から出ている木戸孝允。しかし、その知名度は大久保利通や西郷隆盛よりずっと劣ります。ですが、その地味さこそは無理をせず避けられる困難は避けて、天寿を全うした彼の性格によるものでしょう。今回は時代により、剣豪から革命家、そして政治家に転身していった木戸孝允について解説します。
この記事の目次
病弱だけど悪ガキだった木戸孝允
木戸孝允は1833年、天保4年6月26日、長門国萩城下の呉服町に生まれます。父は藩医の和田昌景、なんと木戸孝允は武士の出自ではなかったのです。木戸孝允は医者の長男、和田小五郎として成長していきますが非常に病弱でした。父は「この子は成人まで育たないだろう」と悲観して小五郎がいるのに娘に養子を取らせて家督を継がせてしまいしまいます。
しかし、これが和田小五郎少年の運命を変えてしまいます。その頃、隣の百五十石の桂家の当主が危篤になり、すでに婿養子を取っていて和田家を継ぐ必要がない小五郎が急遽養子に迎えられたのです。これにより藩医の倅の和田小五郎は、大組士の桂小五郎になるのです。病弱だから大人しいだろうと思いきや、少年時代の小五郎は大変な悪ガキでした。萩城下を流れる松本川に潜って、そこを往来する船を転覆させるというクレイジーな遊びを熱狂してやっていたそうです。
業を煮やした船頭は、船の縁を掴んで上ってきた小五郎の頭を櫂でぶっ叩き、小五郎は頭部から血を流す大けがをします。ですが、自分が悪事をやっている自覚のある小五郎は、「楽しかったんだ、これくらいいいや・・」と額から血を流したままニコニコしながら家に帰ったそうです。
悪ガキの桂小五郎は、一方で10代に入ると学問に才能を示し、藩主の毛利敬親の前で即興の漢詩と孟子の解説をして二度褒美を受けます。いいも悪いも桁が外れていたのが少年時代の木戸孝允でした。
kawa註 なんで藩医の息子が150石の武士の跡取りに?
長州藩は関ケ原の戦いで徳川家康に敗れた結果、領地を3分の1以下に削られた時に、抱えきれない家臣団を解雇しました。こうして商人や職人になっていった旧家臣団がいる関係で、長州では他藩よりは、身分関係が緩やかという特徴があったのです。
木戸孝允が桂家を相続できたのは、緊急で時間がなかったという事もありますが元々、武士とその下の階級の身分差が他藩ほどには厳しくなかった点もあったのだと思います。また、和田家は藩医とはいえ、祖は毛利元就の七男天野元政である出自も影響したでしょう。
人一倍の稽古で剣豪桂小五郎誕生
1848年、元服して正式に桂家を継いだ小五郎は剣術の稽古に励みます。これには、実父の昌景がお前は武士ではないのだから、人一倍、剣術に励み武芸に習熟しないといけないという教えがあったそうです。
「村医者あがりのくせに」とバカにされない為に小五郎は剣に打ち込み長州では随一の腕前になり1852年には、剣術修行の為に江戸に留学し江戸三大道場の一つ、練兵館の斎藤弥九郎道場に通う事になります。ここでも、剣の修業に励んだ桂小五郎は、僅か一年で塾頭になり、大津藩の渡辺昇と共に練兵館の双璧と称されます。江戸留学の五年間、小五郎は男谷信友の直弟子を破るなど剣豪ぶりを見せ各藩に招かれて剣術指南を努める程でした。バカにされない為に始めた剣術で天下一になってしまうとは桂小五郎は何でも出来るスーパーマンだったのです。
ペリー来航で国事に目覚め、洋式帆船まで造ってしまう
しかし、剣豪の地位に満足しないのが桂小五郎です。当時、ペリーが二度目の来航をして日米和親条約が結ばれる段になると国家存亡の危機を感じ取り、志士へと早変わり、実際にお台場に砲台を築いていた伊豆韮山代官の江川英龍の付き人になり、つぶさにペリー艦隊を観察するチャンスを与えられます。
この頃、師匠にあたる吉田松陰がペリー艦隊に乗船して密航を企むと小五郎は、自分で小船と船頭をチャーターしてしまう献身ぶりを見せますが失敗しても成功しても海外に出るのが死罪の時代の話です。松陰は巻き添えにできないと小五郎の申し出を厳しく断り、夜中に小船を盗んで密航し首尾よくペリー艦隊にまで辿り着きますが、乗船を拒否されたので、やむなく陸地に戻り、その足で奉行所に自首しました。
この時、佐久間象山は吉田松陰の密航を激励する詩を送った為に巻き添えで故郷の信州に蟄居させられ、松陰は牢獄に送られますが、桂小五郎については、松陰が一切口を割らなかったのでお咎めなしになっています。小五郎はその後、長州藩に海外留学を求めて、とんでもないと拒否されやむなく江戸で江川英龍について、小銃術、西洋兵学、砲台築城術を学び浦賀でペリーに応対した浦賀奉行支配与力の中島三郎助とも交遊を結び西洋の造船技術を伝授されます。
その後、小五郎は高崎伝蔵という人からスクーナー型という洋式帆船の技術を学び、英語も学んでるようです。江戸の五年間で、色々な事を学び取った桂小五郎なのでした。
尊皇攘夷を標榜し親幕的な航海遠略策を退ける
1858年、師である吉田松陰は安政の大獄の為に処刑されてしまいました。小五郎は、17歳の頃、萩の明倫館で松陰の軍学講義を受けた事があり以来、松陰とは師弟関係でしたが、日本を救う為に命を賭けた松陰を簡単に処刑してしまった幕府に対し、大きな不信と怒りを覚えます。
ここから小五郎は保身しか考えない幕府では日本を救う事は出来ないと考えるようになり、松陰の教え、草莽崛起、天皇を中心とする全国有志の合議で政治を行う体制を実現しようと考えるようになります。
1862年、桂小五郎は、周布政之助、久坂玄瑞と計って、当時、長州藩の藩論になっていた藩の重臣、長井雅樂の航海遠略策を撤廃させ松陰の航海雄略策を長州藩の藩論とする事に成功します。航海遠略策は、簡単に言うと攘夷は必要だが、その前に貿易を盛んにして富を蓄積して富国強兵に努めるという内容ですが、その当事者は、幕府と朝廷であり幕府に都合がよい内容でした。
しかし、すでに薩摩の島津久光が幕府の許可も得ずに堂々と上洛し、朝廷と雄藩の要望をまとめた幕政改革を幕府に飲ませる文久の改革を実現した為にすでに航海遠略策は色あせており、巻き返しに焦った長州藩は永井雅樂を自刃させ尊皇攘夷とセットである天皇中心の統一国家を目指す事になります。
一尊攘派の期待を集めた久光ですが実は幕政改革は望むが、倒幕など考えていない公武合体派だと知れると、一度離れた過激な尊攘派は、再び、長州藩を担ぐようになり、久光が薩摩に帰ると、長州藩が京都において、支配的な力を得るようになります。
1863年、長州藩は一方では外国に対する攘夷戦争を開始しつつ、逆方面では、井上聞多、伊藤俊輔、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の5名をイギリス留学に向かわせています。この五名は長州五傑として、明治維新の近代化を牽引していきます。もちろん、ここには、周布政之助が桂小五郎を引き上げ、小五郎が、軍学者の村田蔵六(大村益次郎)を政権の中枢に置いて、守旧派を説得したから出来た事でした。
禁門の変、長州征伐で小五郎の潜伏生活が始まる
長州藩士は、中下級の公家に尊皇攘夷を説き、一部は三条実美のような公卿まで尊皇攘夷思想に染まりました。彼らは朝廷内の強硬派になって幕府に即時攘夷を迫るようになり、幕府は追い詰められる事になります。
長州は率先垂範とばかりに馬関を封鎖して通行する外国船を砲撃する等独走を始め、それについていけなくなった諸藩から不満が出てきます。孝明天皇も偽物の勅を乱発し、幕府と対立する長州藩の越権行為を嫌い天皇の意を受けた薩摩藩士、高崎正風や中川宮朝彦親王が一橋慶喜に接触します。こうして、会津と薩摩、一橋慶喜が中心となり長州を御所の警備から締め出し同時に京都から長州藩士を追放する八・一八の政変が起こります。これにより、京都で攘夷工作に励んでいた桂小五郎も一転して追われる立場になっていきます。
さらに、1864年の太陽暦7月8日には、新選組による池田屋事件が発生、多くの長州藩士が斬り殺されたり捕縛されました。ここで、長州藩が爆発し、来島又兵衛、久坂玄瑞、真木和泉、福原越後等が長州藩の冤罪を訴える為に約3000の兵を率いて京都に進発します。これには孝明天皇も慌てふためき、日和見の公家からは、長州藩を許すべきという意見が出ますが、慶喜は断固交戦を唱え「どうしても長州藩を京に入れるなら私は辞職する」と恫喝ここに戦争は避けられなくなりました。
しかし、長州軍は御所を守る薩摩藩の武力の前に禁裏に入る事が出来ず惨敗天皇に弓を引いたとして完全な朝敵になります。桂小五郎は、長州の京都進発に反対でしたが、始まった以上は止めようもなく因州藩を長州勢に引き込もうと画策して河田景与と交渉します。ですが、「まだ時期尚早」と色よい返事はもらえませんでした。追い詰められた小五郎は御所から避難する孝明天皇に直訴を考えますが失敗結局、幾松や対馬藩士、大島友之允の助けを借りて逐電し潜伏生活に入ります。ところが、会津藩や新選組の長州藩残党狩りの目は厳しく、小五郎は、京都潜伏を断念し、但馬の出石に移動しました。これらの事情は、高杉晋作のような人々さえ知らず小五郎は禁門の変で行方不明という事になっていたようです。
高杉晋作のクーデター成功 長州のTOPとして返り咲く
長州藩は禁門の変で敗北後、2年間断続的に続けた攘夷戦争の報復で、四か国連合艦隊の攻撃を受けて、こちらでも惨敗します。さらに、朝敵となった長州を討伐する目的で幕府は十五万からの軍勢を起こし万事休すとなった長州の尊王攘夷派は藩政の実権を手放し、長州は椋梨藤太のような幕府恭順派が藩政を奪還、藩内の尊王攘夷派に対し苛烈な弾圧を開始しました。
しかし、禁門の変で完全に倒幕に振り切れた長州藩の世論は容易に幕府恭順には傾きませんでした。ここで、高杉晋作は僅か六十名の奇兵隊を率いて功山寺で挙兵し、恭順派を打ち破り、武力で政権を奪い取りました。これを受けて幕府は、再度の長州征伐を画策します。
ですが戦争は兎も角、高杉には複雑な外交を運営する能力がないので、ここからどうするか困惑していましたが、思いがけず小五郎が但馬の出石に潜伏している事を知り、ただちに迎えを寄こして長州藩のTOPに据えます。小五郎は藩の方針を謝罪恭順から武備恭順に転換し、その頃、幕府を見限った薩摩藩は、長州藩と手を結ぼうと中岡慎太郎や坂本龍馬に仲介を依頼していました。
禁門の変では煮え湯を飲まされた仇敵の薩摩ではありましたが、幕府を倒さないと自分達が倒される薩長は恩讐を超えて手を結びます。かくして薩長同盟を結んだ小五郎は、薩摩藩名義で武器を購入し軍制改革で組織された民兵奇兵隊を中心に長州藩は、十五万の幕府軍を領内に寄せ付けず、14代将軍、徳川家茂の病死もあり幕府は軍を引きます。結果は和睦でしたが、実質は長州藩の勝利でした。
これにより弱体化した幕府は、一時、徳川慶喜の改革で持ち直しますが鳥羽伏見の戦いに引き込まれて賊軍となり、慶喜は謝罪恭順、江戸城は、西郷隆盛と勝海舟の会見で無血開城し、師の松陰の仇であった徳川幕府は264年の幕を閉じました。
民権政治家として維新政府で活躍
明治時代に入り木戸孝允と名を改めた桂小五郎は、右大臣の岩倉具視からも政治的な見識を買われて、ただ一人の総裁局顧問専任となり、維新政府の政治全般の最終責任者になります。木戸が提言した政策と建言には、議会政治の根拠となった五か条の御誓文、マスコミの育成、封建制度の廃止や、四民平等、憲法制定や三権分立、二院制の確立や、教育の拡充など多岐に渡ります。
それ以外にも軍人を閣僚に登用する事の禁止や、民主的な地方警察や裁判制度など、中央政府の独裁にならないような権力のバランスを考えた提言をしているようです。木戸は大久保のような極端な中央集権ではなく、中央と地方が合議して政治を動かしていくリベラルな政治を理想としていました。その為に衆議院のような組織を模索し、また地方自治を確立する為に1875年に第一回の地方官会議を招集したりしています。
明治政府に参画した初期は、征韓論などにも同調した木戸ですが、岩倉遣欧使節に参加して、西洋の国力を目の当たりすると、とても戦争どころではないと考えるようになり国力拡充を最優先して征韓論では反対に回ったり、台湾出兵を批判したりし、その為に参議を辞任したりしています。ただ、木戸が今風で言う平和主義者かというとそうでもなく、当初は大久保が組織した内務省の権限の強さを官僚独裁に繋がると否定的でした。しかし、佐賀の乱のような士族蜂起が相次ぐと必要悪として認め、かつての同僚の前原一誠が萩の乱を起こすと、これを鎮圧して前原を極刑に処すなど冷酷な一面もあり空想的なリベラリストではない面もあります。
飽くまでも外国の介入を招くような国際紛争は時期尚早というのが、木戸の考えだったのでしょう。
理想と現実のギャップに苦しみ心身を病んで病死
一方で明治政府が木戸が目指した立憲政治とは似ても似つかない官僚独裁になっていくのに、木戸も忸怩たる思いを持ちますが、遣欧使節から帰国後に体調不良が続き、政務に継続して関わる事が難しくなり、政治は大久保が取り仕切るようになります。元々、木戸は鯨海酔侯と呼ばれた山内容堂と飲み比べをするような酒豪でこの頃には、肝臓が腫れて体調悪化に拍車がかかっていました。それに加えて、政府の重鎮という立場が精神的なストレスになり、歯痛や腹痛、胸痛、頭痛なども抱えて、満身創痍でした。
また伊藤博文の証言では木戸は馬車で移動中に頭を強打して以来、大変な心配性になってきたとも言われます。これは、頭部を強打した結果として発症する強迫性障害の症状に似ていて木戸の心配性は、この時の頭部強打に関係する可能性もあります。
明治十年に西郷が鹿児島で挙兵すると病身を推して討伐軍の指揮を願い出ますが、京都に到着した所で体調が悪化して従軍不可能になります。そして、1877年の5月26日、見舞いに来た大久保の手を握り、朦朧とした意識で「西郷、もうたいがいにせぬか」と叱りつけると息を引き取りました。享年43(満45歳)でした。
幕末ライターkawausoの独り言
桂小五郎は、元は剣豪から出発して、過激な尊攘思想の革命家になり、その後はリベラルな民権的な政治家へと時代の要請に従い自分を変えた人です。機を見るに敏で剣の腕は強いのに我を張らないので、同志が非業の死を遂げる中でも生き延び維新の三傑に名を連ねました。
しかし、明治維新後は、どこか不徹底が続き通すべき意見を通せずただの不平不満屋として扱われた点は惜しい所です。大久保が政治的な見識では木戸に劣りながら、自分に逆らうものは、誰であろうと踏み潰すという考えで独断専行したのに比較すると合議を重視した木戸はインパクトが弱かったのでしょうね。
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