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荀彧、忠義の岐路!後漢か曹魏か、[真の所属は?]

2024年5月1日


曹操を励ます荀彧

 

曹操(そうそう)から「我が子房(しぼう)」と言われ大いに頼りにされた荀彧(じゅんいく)。荀彧は曹操の為に色々と力を尽くして支えますが、後漢王朝(ごかんおうちょう)の為にも力を尽くしてきた人でした。

 

曹操と荀彧

 

荀彧は曹操と後漢王朝両方に力を尽くしてきた人ですが、一体どちらの臣下だったのでしょうか。今回は後漢王朝の家臣なのかそれとも魏の家臣なのかそれぞれの理由を挙げてみたて読者の皆さんに決めてもらいたいと思います。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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荀彧が魏の家臣の理由はやっぱり曹操に尽くしてきたから!!

荀彧

 

荀彧が魏の家臣である理由はやっぱり曹操に尽くしてきたの一言に尽きるのではないでしょう。荀彧は曹操の為に自らの能力をフルに使って彼を支えます。曹操が徐州(じょしゅう)へ遠征している間、兗州(えんしゅう)呂布(りょふ)陳宮(ちんきゅう)のせいで乗っ取られてしまいます。

 

呂布

 

 

この時兗州の9割方が呂布に協力して曹操から離反。荀彧は兗州の一城を守っていましたが、呂布に協力しないで、兗州の城をしっかりと守り、曹操の反撃の糸口をキープ。更に曹操が大ピンチになっている兗州へ豫州(よしゅう)の刺史が数万の兵を率いて、荀彧が守っている城へやってきます。呂布の軍勢ではなく外部からの危機が荀彧達を襲ってきます。

 

 

兗州最大の危機もなんとか切り抜ける

呂布と荀彧

 

豫州の刺史は荀彧に会見を要請。夏侯惇(かこうとん)ら兗州を守っていた諸将は「豫州の刺史は呂布達と手を握っているに違いない。ここで荀彧殿が行けば殺されてしまいますぞ」と忠告しますが、荀彧は彼らの忠告に対して

 

荀彧

 

 

「豫州の刺史は呂布達の動きを見極めるためと我らの動きを探るために私へ会見を申し込んでいるのでしょう。ここで私が彼を説得すれば、協力してくれなくても敵と結託(けったく)しないで済むかも知れない。だから私は豫州刺史と会見してきます」と言って会見へ。

 

荀彧

 

荀彧は豫州の刺史と会見し、豫州刺史の軍勢を兗州から退去させることに成功。荀彧が豫州刺史との会見にしくじっていれば、曹操が兗州を失っていた可能性が高く、三国志の歴史は大きく変わり、荀彧のこの時の働きによって曹操が三国志の一角魏の勢力を築く端緒(たんしょ)を掴めたと言えるでしょう。では次に荀彧が後漢王朝の家臣である理由を述べてみましょう。

 

 

後漢王朝の為に尽くし、官位をもらっているから後漢の臣

光武帝を解説する荀彧

 

荀彧が後漢王朝の家臣である理由は後漢王朝を支えるための努力を惜しまなかった点と後漢王朝から官位をもらっている事が挙げられるでしょう。荀彧は後漢王朝の皇帝の為に新しい都を曹操へ進言して用意してあげます。皇帝は荀彧や曹操の処置を喜び新しい都・(きょ)に到着した時、曹操を大将軍に任命し、荀彧を侍中(じちゅう)守尚書令(しゅしょうしょれい)へ任命しています。

 

kawauso編集長の註

kawauso

 

守尚書令の守とは、尚書令「見習い」の意味荀彧は曹操の司馬から一足飛びで尚書令になったので異例の昇進の意味で、守をつけた可能性が高いようです。

 

荀彧

 

荀彧は後漢王朝の官位を拒否しないで貰い受けて、後漢王朝の家臣になります。もし曹操の家臣でいたかったら荀彧は官位を貰うことを拒否したはずです。しかし荀彧は官位を貰っている事から後漢王朝の家臣と言えるのではないでしょうか。更に荀彧は官位をもらった後も後漢王朝の為に色々と便宜を図っています。これらの事を考えると荀彧を後漢王朝の家臣と見ることが出来るのではないでしょうか。

 

 

三国志ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レンの独り言

 

もう一つ荀彧が後漢王朝の家臣と呼べる理由として、後漢書に荀彧の列伝が記載されている事です。後漢王朝の側が荀彧の事を家臣として見ていたと言える証左と呼べるのではないでしょうか。しかし荀彧は曹操へ幾度もアドバイスをして、彼の危機的状況を助け、魏の家臣としてしっかりと爵位ももらっています。

 

その為荀彧が後漢王朝の家臣と断定することもできません。果たして荀彧は一体どちらの家臣なのか。皆様は荀彧が魏の家臣なのか。それとも後漢王朝の家臣なのか。一体どっちだと思いますか。

 

参考 ちくま学芸文庫 正史三国志魏書等

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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