曹操から「我が子房」と言われ大いに頼りにされた荀彧。荀彧は曹操の為に色々と力を尽くして支えますが、後漢王朝の為にも力を尽くしてきた人でした。
荀彧は曹操と後漢王朝両方に力を尽くしてきた人ですが、一体どちらの臣下だったのでしょうか。今回は後漢王朝の家臣なのかそれとも魏の家臣なのかそれぞれの理由を挙げてみたて読者の皆さんに決めてもらいたいと思います。
荀彧が魏の家臣の理由はやっぱり曹操に尽くしてきたから!!
荀彧が魏の家臣である理由はやっぱり曹操に尽くしてきたの一言に尽きるのではないでしょう。荀彧は曹操の為に自らの能力をフルに使って彼を支えます。曹操が徐州へ遠征している間、兗州が呂布と陳宮のせいで乗っ取られてしまいます。
この時兗州の9割方が呂布に協力して曹操から離反。荀彧は兗州の一城を守っていましたが、呂布に協力しないで、兗州の城をしっかりと守り、曹操の反撃の糸口をキープ。更に曹操が大ピンチになっている兗州へ豫州の刺史が数万の兵を率いて、荀彧が守っている城へやってきます。呂布の軍勢ではなく外部からの危機が荀彧達を襲ってきます。
兗州最大の危機もなんとか切り抜ける
豫州の刺史は荀彧に会見を要請。夏侯惇ら兗州を守っていた諸将は「豫州の刺史は呂布達と手を握っているに違いない。ここで荀彧殿が行けば殺されてしまいますぞ」と忠告しますが、荀彧は彼らの忠告に対して
「豫州の刺史は呂布達の動きを見極めるためと我らの動きを探るために私へ会見を申し込んでいるのでしょう。ここで私が彼を説得すれば、協力してくれなくても敵と結託しないで済むかも知れない。だから私は豫州刺史と会見してきます」と言って会見へ。
荀彧は豫州の刺史と会見し、豫州刺史の軍勢を兗州から退去させることに成功。荀彧が豫州刺史との会見にしくじっていれば、曹操が兗州を失っていた可能性が高く、三国志の歴史は大きく変わり、荀彧のこの時の働きによって曹操が三国志の一角魏の勢力を築く端緒を掴めたと言えるでしょう。では次に荀彧が後漢王朝の家臣である理由を述べてみましょう。
後漢王朝の為に尽くし、官位をもらっているから後漢の臣
荀彧が後漢王朝の家臣である理由は後漢王朝を支えるための努力を惜しまなかった点と後漢王朝から官位をもらっている事が挙げられるでしょう。荀彧は後漢王朝の皇帝の為に新しい都を曹操へ進言して用意してあげます。皇帝は荀彧や曹操の処置を喜び新しい都・許に到着した時、曹操を大将軍に任命し、荀彧を侍中・守尚書令へ任命しています。
kawauso編集長の註
守尚書令の守とは、尚書令「見習い」の意味荀彧は曹操の司馬から一足飛びで尚書令になったので異例の昇進の意味で、守をつけた可能性が高いようです。
荀彧は後漢王朝の官位を拒否しないで貰い受けて、後漢王朝の家臣になります。もし曹操の家臣でいたかったら荀彧は官位を貰うことを拒否したはずです。しかし荀彧は官位を貰っている事から後漢王朝の家臣と言えるのではないでしょうか。更に荀彧は官位をもらった後も後漢王朝の為に色々と便宜を図っています。これらの事を考えると荀彧を後漢王朝の家臣と見ることが出来るのではないでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
もう一つ荀彧が後漢王朝の家臣と呼べる理由として、後漢書に荀彧の列伝が記載されている事です。後漢王朝の側が荀彧の事を家臣として見ていたと言える証左と呼べるのではないでしょうか。しかし荀彧は曹操へ幾度もアドバイスをして、彼の危機的状況を助け、魏の家臣としてしっかりと爵位ももらっています。
その為荀彧が後漢王朝の家臣と断定することもできません。果たして荀彧は一体どちらの家臣なのか。皆様は荀彧が魏の家臣なのか。それとも後漢王朝の家臣なのか。一体どっちだと思いますか。
参考 ちくま学芸文庫 正史三国志魏書等
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