騎射と馬術に秀でた白馬義従を率いて異民族との戦いで功績を立てた公孫瓚。彼の人生は、正史三国志においては、常に劉虞と比較して語られており、劉虞と比べて一段、低い評価に終始しました。
特に、劉虞が異民族を徳で懐かせたのに対して、公孫瓚は武力討伐を主としておりその為に、異民族に怖れられ憎まれていたのだとされがちです。しかし、それは本当なのでしょうか?ちょっと検証してみましょう。
武断派の公孫瓚
公孫瓚の異民族に対する考え方は、魏志の公孫瓚伝に引かれた魏氏春秋にあります。それによると劉虞の異民族融和策に対して公孫瓚は以下のように反論します。
異民族というのは制御しがたいもので、従わなくなったら討つに限ります
圧力を加えて、こちらが上だと教え込まないと秩序が保てないのです。
今、金品を与えて懐かせれば、一時は上手くいくでしょうが、
やがて、連中は騒げば金品が貰えると考え、漢を軽んじて増々騒ぐようになり
長い目で見れば、失うモノが多いのです。
公孫瓚は、親の仇のように異民族を討伐したので、彼らを憎悪しているかのように感じてしまいますが、実際はそうではなく異民族と親しめば馴れ合いになり、こちらを舐めるので叛いたら徹底鎮圧して上下関係を教え込まないといけないと説いているだけでした。
そして、このような考えは公孫瓚に限らず異民族対策のエキスパート達が多かれ少なかれ持っている統治法だったのです。
官位が低い公孫瓚には、武力による鎮圧しか手がなかった
劉虞と公孫瓚では、地位も全く違いました。劉虞は地方官の最高位である幽州牧であり、兵力も物資も十分に保有しており、異民族には恩恵も懲罰もどちらも与える事が出来ました。しかし、公孫瓚は騎都尉に過ぎず、行政職でも琢県令でしかありません。潤沢に異民族に施すような物資はなく、与えられた兵力でひたすら異民族を鎮圧するしか方法はなかったのです。
後に劉虞を殺した公孫瓚は、楽何当のような大商人と義兄弟の契りを結び異民族との交易を盛んに行っていますが、交易の促進は、異民族にとっても必要な食糧などを毛皮のような産物と交換できるウィンウィンの機会でした。一方的に与えるではありませんが、これも武力によらない異民族懐柔であり公孫瓚がひたすら武力一辺倒ではなかった事が分かります。
もし、公孫瓚が劉虞の立場なら、劉虞ほどに徳を前面には出さなくても異民族が餓えて略奪を働くような事をしないように交易を含めて必要な措置は取ったと考えられます。
劉虞は公孫瓚を排除しようとはしていない
また、劉虞にしても異民族対策で公孫瓚と対立はしたものの、その兵権を奪うような事はしていません。実際に張純の乱で公孫瓚が和睦が敗れるように異民族が劉虞に派遣した使者を密かに殺害して妨害しましたが、反乱の鎮圧後に、他の将からは兵力を取り上げていますが、公孫瓚の歩騎は手をつけずに右北平にそのまま駐屯させています。劉虞としては、公孫瓚のような考えも確かにあるとした上で自分の信念を貫いただけで、それを理由に公孫瓚を憎んで、兵権を取り上げるような深刻な対立では189年の時点では無かったのです。
三国志ライターkawausoの独り言
後に劉虞と対立した公孫瓚は、これを滅ぼして、劉虞の部下だった漁陽の鮮于輔、斉周、騎都尉の鮮于銀の恨みを買いますが、別にこの報復に当初、異民族は参加していません。ただ、鮮于輔や鮮于銀は、烏桓族と繋がりが深い閻柔を引き込んだので、閻柔が烏桓や鮮卑の精兵を招いて引き連れ、それに鮮于銀や斉周が集めた漢兵と併せて数万の大軍になったというのが実相なのです。閻柔を引き込まなければ、異民族が劉虞の報復に立つ事は無かったでしょう。こうしてみると、公孫瓚は異民族には取り分けて恩義も与えていないが特別憎まれてもいなかったのです。
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