三国志の直前である後漢の時代は、商業が空前の発展を見せ教育が盛んになり、富裕な庶民でさえ学校に通うなど識字率が向上した時代でした。しかし、光ある所影ありで、同時にこの時代は身代金目当ての誘拐が大ブームになっていたのです。今回は誘拐が大流行した理由と、その対処法について解説します。
この記事の目次
曹操は夏侯惇が嫌い?どうして韓浩を讃えたのか
曹操の懐刀である夏侯惇は魏軍の中では珍しく人質になった経験があります。兗州を呂布が陥れた時に、夏侯惇は軽装兵で濮陽城を出撃し呂布と戦いますが呂布の偽の退却に引っ掛かり、占拠した濮陽城をガラ空きにして迎撃に出た所を城を奪われた上に補給部隊を失いました。おまけに呂布の部下の嘘投降に引っ掛かり人質にされ金品を要求されたのです。
曹操が徐州に出払っていて不在の時に留守を守る夏侯惇がまさかの人質という、とんでもない状態、、曹操軍には戦慄が走りますが、副官の韓浩は夏侯惇もろとも呂布の降将を皆殺しにする事も止む無しと決意し、諸将を糾合して敵将の本陣に突入!まさか攻めてくるとは思わない呂布の将は、狼狽し夏侯惇を解放して逃げことごとく殺されてしまいます。
曹操は、韓浩の行為を激賞して「韓浩の行為は後世の手本とすべき事だ!以後誘拐犯は、人質もろとも打ち殺し要求を聞いてはならない」と宣言して以来、世間から誘拐事件は消滅したと言われています。
え?でも、ちょっと待って、一歩間違えば惇兄ィが死ぬ所だよそれを激賞って、曹操は夏侯惇を何とも思っていないの?ちょっと曹操と惇兄ィの友情を疑いますが、実はこの話には深ーい、いきさつが存在するのです。
曹操以前から誘拐犯は人質もろとも皆殺しが国法だった
実は、曹操が改めて宣言するまでもなく後漢の法では、誘拐犯の身代金要求には決して応じてはならない決まりでした。しかも、誘拐犯ばかりではなく人質もろとも殺せとしているのです。その理由は、交渉が決裂すれば誘拐犯は人質を盾に逃げようとするからで、ここで手加減すると誘拐犯を取り逃がすので人質を巻き添えにしても正義を実行せよ、それでも罪には問わないという意味でした。
実際に韓浩も夏侯惇に対して、泣きながら「国法なので助けられません、お許しください」と言っています。夏侯惇も韓浩も、そういう後漢の法律は知っていたので納得づくの処置でした。「人質を救うな」とは、曹操が初めて言い出したのではなく国法に従った態度だから曹操は韓浩を褒めただけなのです。よかった曹操が惇兄ィを嫌いなわけじゃなかったんですね。
人質もろとも皆殺しを実行した陰皇后の母弟誘拐事件
後漢の時代、人質もろとも誘拐犯を殺害したケースには、西暦33年に起きた光武帝の皇后、陰麗華の母弟誘拐事件があります。この時に役人は身代金を要求する誘拐犯に構わず、人質ごと犯人を殺した事が後漢書の陰皇后伝に書かれています。
この時、皇后の母の弟を巻き添えに殺した役人達は何ら罪に問われていないので、この処置は正当だったようです。捕まった人質の生命より卑劣な誘拐という犯罪の撲滅が先という方針がこの頃からあった事が分かります。
なかなか守られなかった国法
しかし、後漢の法律が誘拐犯に厳しい措置を決めているのに、どうして誘拐事件が盛んに起きていたのか疑問が残りますね?実は、このような法律が取り決められると、身内を誘拐された人は役人に事件を届けなくなったのです。
「役人に事件を届けて誘拐犯ごと身内が殺されてはたまらないそれならお金を払ったほうがいい」
こうして、内密に誘拐犯にお金を払うのが一般化した為に誘拐事件は顕在化せず、逆に犯罪者にとってはなかなか捕まらない割のよい商売として大流行する事になりました。法律より人情を優先してしまう、そんな人々の身内可愛さが逆に誘拐事件を潜在化させ大流行させてしまったとは皮肉な話ですね。
三国志ライターkawausoの独り言
法治主義者の曹操は、そういう身内優先で誘拐犯に阿る世間が嫌いでした。だって法よりも身内が第一、人情が第一というのは、まんま儒教だからです。
「悪人をつけあがらせおって、愚民どもめ」とイラついていた時に、たまたま部下の韓浩が勇気を奮い「国法だから曲げられない!惇兄ィ、頼むから死んでくれ」とやったので「あっぱれ!それでこそワシの部下じゃ」となったのでしょう。別に夏侯惇が死んでも、そんなに困らないとは思っていないと思いますよたぶん・・・
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