さてさて。今回も始まりました。「はじ三で最も胡散臭いコーナー」(自称)
はじ三ミステリー調査班!! ドドンッ
『kawauso編集長のぼやきVol.22「今見たいテレビ」』の回で、我らが編集長、こんなことを仰ってます。
「信じるより疑うのは面倒で解明するのは余計に難しいから、都市伝説を披露するより、それが本当かを検証する方が、はるかに大変で知的な作業だと思うんだよね」
うーん、さすがは編集長。良いこと言いますなぁ。科学はその批判精神あってこそ発展した。これはまぎれもない事実です。(お前が科学とか言うなという声は例によって聞こえない)と、言うことで今回のHMRでは、とあるオーパーツに関する定説を検証してみたいと思います。
題して
「聖徳太子は本当に地球儀を創れなかったか?」
それでは、どーんと参りましょう!!
この記事の目次
聖徳太子の地球儀の謎
タイトルでピンと来た方も多いのでは?
今回取り上げますオーパーツは兵庫県は斑鳩寺(いかるがでら)に伝わる寺宝(じほう)「地中石(ちちゅうせき)」通称「聖徳太子の地球儀」です。斑鳩寺は西暦606年に聖徳太子によって建立されたとされるお寺で、聖徳太子ゆかりの宝物が所蔵されていることで知られています。江戸時代に、それらの宝物の目録が作成されましたが、そこに「地中石」という名前で記載されているのが、「聖徳太子の地球儀」です。
「地中石」はソフトボールほどの大きさの、おおむね球体の石のようなもので、その表面は凹凸でなにかの模様が形作られています。その模様というのが、なんと地球上の陸地と海を模したもの!!南北アメリカ大陸やユーラシア大陸のみならず、19世紀に発見された南極大陸やムー大陸と思しき陸地まで表現されています。日本に始めてもたらされた世界地図は中国の明代、1602年に刊行された「坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)」とされており、それ以前の日本には現在のような世界(地球)の概念はありませんでした。
つまり、飛鳥時代の人である聖徳太子に地球儀など創れるはずはありません。では、この「地中石」は一体何なのでしょうか?まさにオーパーツというしかありません。
実は石なんかじゃなかった「地中石」
まあ、実のところこの「地中石」、どうやら聖徳太子の作ではないというのが真相だと言われています。まず問題とされたのはその材質。「地中石」とは言いますが、実は石ではなく石灰と海藻類を主成分とする漆喰(しっくい)のようなものでできていることが判明しています。
このような漆喰が使われるようになったのは戦国時代以降のこととされており、飛鳥時代に作られたものではないことは明らかです。そして、もうひとつ、「地中石」が飛鳥時代のものではないことを決定づける証拠とされているのが。表面に書かれていた文字「墨瓦臘泥加(メガラニカ)」です。
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坤輿万国全図に描かれていた「メガラニカ」
メガラニカというのは、古代ギリシアから大航海時代までの長い期間、西洋でその存在が信じられていた南方の未知の大陸です。元はラテン語で「テラ・アウストラリス(Terra Australis)」と呼ばれその呼称はオーストラリア大陸の名称の由来にもなっています。
「テラアウストラリス」が「メガラニカ」になったのはあの人のせい。
「テラアウストラリス」が「メガラニカ」と呼ばれるようになったのは大航海時代、世界一周で知られるマゼランが南アメリカ大陸の南端に位置する島(現在のフエゴ島)を未知の南方大陸の一部と思ったことに由来、マゼラン(Magallanes)の名前から新たにそう名付けられました。実は、日本に初めて伝来したとされる世界地図、坤輿万国全図にメガラニカが描かれており、そのことから地中石は少なくとも1602年以降に製作されたものであると考えられています。
「聖徳太子の地球儀」説にトドメを刺した『特命リサーチ200X』
現在では「地中石」を江戸時代に作られたものとするのが定説になっています。この仮説を広めたのが、あのkawauso編集長の記事でも触れられていたテレビ番組『特命リサーチ200X』です。番組では、江戸時代中期に刊行された日本最初の百科事典『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』に掲載された世界地図「山海輿地全図(さんかいよちぜんず)と「地中石」の地形がよく似ていることから、「地球石」の作者が和漢三才図会の編者寺島良安(てらじまりょうあん)ではないかとする仮説が紹介されました。
江戸時代に製作された「地中石」が斑鳩寺に奉納されやがてその由来が忘れられ聖徳太子の宝物と勘違いされた、というのが、今では最も有力視される説です。うん、まあ、理屈で考えたらそういう結論になるよね。仕方ないね。だけど……だけどさ。
そーんなの、つまーんねーじゃーん!! と隊長は駄々をこねる
だって、浪漫がないじゃないですか、それじゃ!!
世界地図も地球が丸いことも知ってて当たり前の時代の人が作った地球儀なんですよー、なんて、まるで新聞連載のうっかりちゃっかりしてるだけの4コマ漫画みたいなオチ、面白いですか?面白くないでしょ!?
問題は、「聖徳太子の地球儀」を聖徳太子が本当に創れたのか?という疑問にあります。飛鳥時代の人だった聖徳太子が世界地図や地球が球体であることを知ってるわけがない。だから「聖徳太子の地球儀」はオーパーツなんかじゃなくて後世の贋作ではないのか?……そういう疑念があったからわざわざ検証されたわけですよね?
いいでしょう。確かに「地中石」が作られたのは江戸時代以降という説は動かしがたいのも事実です。しかし、聖徳太子は本当に地球儀を創れなかったのでしょうか?その辺を攻めてみようじゃないですか。
ムー大陸でなくても作れた地球儀の秘密
聖徳太子はムー大陸の超技術を知っていて、その力を使って地球儀を創ったんだ!!……なんて説もあるにはありますが、実はこの謎、普通に歴史事実として知られていることをつないでいくだけで、一つの回答が見いだせたりします。
そのポイントは、「世界地図」と「地球儀」の歴史をさかのぼってみると見えてきます。世界地図の起源は紀元前7世紀のバビロニアまで遡れます。ただしこの頃の世界地図は実際の地形を正確に書き写そうとするものではなく、世界全体の構造を想像込みで描こうとしている傾向が非常に強いものでした。
「歴史」という概念を成立させたことで有名な古代ギリシアのヘロトドスの時代になると、正確性がかなり重視されるようになりました。この時代の地図はギリシアのあった地中海周辺についてはかなり正確に描かれる一方、ヨーロッパやアジアに関してはいい加減に描かれています。
天動説で知られる古代ローマの天文学者プトレマイオスは、ヘロトドスの時代よりも更に精緻な地中海を中心とした世界地図を描いています。地球が球であるとする、「地球球体説」もその源流は古代ギリシアに遡れます。古代ギリシアで地球球体説を創始したのは、数学者ピュタゴラスだとされ、紀元前4世紀にはアリストテレスが地球球体説を主張しています。
そもそも、「地球は丸い」という考え方は水平線の先から寄港する船が接近するにつれ、最初にマストのてっぺんから見え始め、徐々に船体がせり上がってくるように見えることから海の表面が局面ではないかと考えられたことから生じたそうです。
つまり、遠洋航海できる船を持つだけのレベルに文明が到達していれば、その文明の人々が地球球体説を思いつく可能性は十分にありうる、というわけです。世界地図と地球球体説、この2つの考え方があれば地球儀は成立します。実際に、紀元前2世紀の頃、マロスのクラテスという哲学者が5つの大陸を描いた地球儀を作ったとされています。
飛鳥時代の日本に地球儀の概念が伝えられていた可能性
西暦166年、ローマからの使者が後漢の桓帝に朝見し、象牙と犀角、べっ甲を献上し、霊帝は西洋贔屓でその時代、西洋風の生活様式が流行したといいます。つまり後漢時代の中国に「地球儀」が持ち込まれた、もしくはその概念が伝えられた可能性は否定できません。
そして、その後の三国時代に、卑弥呼の使者が魏の皇帝に奴隷と貢物を献上、金印を授けられた話は、「はじ三」を愛読している皆さんには言うまでもありませんね。つまり、飛鳥時代の人である聖徳太子が古代ギリシアを発祥とする「地球儀」の実物、もしくはその概念を知っていた可能性は十分ありうるのです!!地球儀に興味を抱いた聖徳太子が、手慰みに自分で地球儀を作ってみた可能性も、考えられるじゃないですか!!
(参考記事)
長友佑都の「アモーレ」発言!後漢の時代でも普通に使われていた?後漢にやってきたローマ使節
歴史書に書かれない事実もある
それはいくらなんでも強引すぎるんじゃないの?
皆さんがそうおっしゃりたいのもわかります。なにせ、そんな話は歴史書のどこにも書かれておらず想像を重ねただけでは、何の説得力もないでしょう。ですが。隊長は思うのです。果たして「歴史書」に描かれた事実のみが、唯一の正しい歴史なのでしょうか?ひとつのたとえ話をしましょう。
ヨーロッパ人で初めてアメリカ大陸を発見したのはクリストファー・コロンブスで、1492年のことである。というのが一般的に知られる「歴史」です。しかし、中世アイルランドの散文集である「サガ」の記述によれば、10世紀末にアイスランド生まれのレイフ・エリクソンという人物がヴィンランドと呼ばれた新大陸=アメリカに入植を試みたとされています。
つまり、この説に依るなら、コロンブスよりも500年も前に、アメリカ大陸は発見されていたというのが真相です。なぜ、そのことが今日あまり知られていないのか?それは当時のヨーロッパには新しい領土を発見し、その占有権を主張するという発想がなく、ヴィンランド発見の情報も、「とるにたらないこと」として語られることがなかったからだと言います。
「地球儀」は「とるにたらないもの」だった?
飛鳥時代の日本の宇宙観は、中国の「天円地方」に習い高天原(天)と葦原中国(地)によって構成されるものでした。大地が球の形をしているなど、この時代の日本人には与太話以外の何物でもなかったでしょう。しかし、聡明な人物であった聖徳太子なら海の彼方から届いた「とるにたらない」噂話に興味を示したかもしれません。
もちろん、文献の記述から歴史を組み立てることはとても大切です。それを否定しては歴史は成立しません。しかし、記述された歴史は、本当の歴史のごく一部であることも確かな事実です。オーパーツとは、もしかするとそんな「記述されなかった=とるにたりない歴史」を証明するものなのかもしれませんね。
HMR隊長の戦々恐々
……ハッ。
やばい。どう見てもこの記事、Kawauso編集長にケンカ売ってるようにしか見えない……。大丈夫だよね?大丈夫ですよね??(哀願)
と、ともかく隊長の首が飛ばなかったら、またお会いしましょう!!(超自爆
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