治世の能臣、乱世の奸雄と称された曹操。機知に富んだ彼は戦の天才として三国時代を牽引していく存在でした。
曹操は大変な勉強家で、兵法書として名高い『孫子』を熱心に研究していました。また、詩文にも明るく、文芸を嗜みました。文武両道、まさに完全無欠の曹操は、憎たらしい敵役として『三国志演義』に描かれています。正史『三国志』で(建前上)正統な王朝であるとされる魏の立役者・曹操。三国で最強とされた魏をつくりあげた彼に弱点はあったのでしょうか。曹操の数少ない負け戦から、その弱点を分析してみましょう。
汝、慢心するなかれ!曹操VS呂布
黄巾の乱を鎮めるために旗揚げしてから、少数部隊だった曹操軍はどんどん膨れ上がっていき、精鋭部隊・青州兵を設けるほどになっていました。そんな曹操軍の記念すべき初の負け戦は親友・張邈の裏切りにより差し向けられた呂布との一戦でした。
張邈と呂布により、留守中に兗州のほとんどを奪い取られてしまった曹操。怒り狂った曹操は兗州に引き返します。このとき曹操は呂布の駐屯地が濮陽であることを知って嘲笑。「東平あたりで軍を構えれば呂布に勝機もあったのだが、やはり呂布は頭が悪いな。」このように嘯いて、勇んで濮陽を攻めた曹操。ところが、なんと自慢の青州兵が呂布軍にけちょんけちょんにやられてしまったのでした。呂布軍には青州兵よりも更に鍛え抜かれた并州騎兵隊があったのでした。
魏で最強とうたわれる武将・夏侯惇も片目を失い、命からがら退却してきた曹操軍。そこに一通のお手紙が届きます。手紙の主は、名士として名高い田氏でした。「曹操様をこっそり城に引き入れますので、呂布軍に奇襲を仕掛けてください。」曹操は大喜びで濮陽城に入城。ところが、城はもぬけの殻。それどころか、城門が閉められ、城壁の上に呂布軍が現れたのです!
呂布軍は矢をビュンビュン放って曹操軍を蹂躙。その上、城内に火を放たれて無様に逃げ惑う曹操軍…。曹操はこの戦で体に大やけどを負いましたが、辛くも逃げ延びたのでした。相手を侮っていた曹操は大敗を喫したのでした。慢心は身を滅ぼすのですね。
汝、姦淫するなかれ?曹操VS張繍
南陽郡に攻め込んだ曹操は、張繍を降伏させることに成功します。その際、曹操は張繍の叔父・張済の妻を見かけます。先の戦で命を落とした張済の未亡人の色気にあてられたのか何なのか、曹操はその未亡人を妻にしてしまいます。
これには張繍もご立腹。張繍が自分を憎々しげに見ていることに気づいた曹操は張繍を殺そうと考えます。ところが、張繍も曹操の殺気に気が付きます。そこで、張繍は曹操に奇襲をしかけることにしました。この奇襲は大成功を収め、曹操は右ひじを負傷、その上多くの武将を失ってしまいました。女色に耽っていたせいで大変な目に遭った曹操でした。
やっぱり、汝、慢心するなかれ…。曹操VS劉備&孫権
『三国志演義』では呉・蜀の連合軍を相手に大敗を喫することにされている曹操。正史『三国志』でも負けたと記されているので、間違いではなさそうですが…。今回は『三国志演義』に沿ってその負けっぷりを紹介しましょう。
荊州の劉表の元に身を寄せていた劉備は、劉表に新野を任せられていました。劉琮を降伏させた曹操は劉備に矛先を向けます。ますます拡大していた50万の兵から成る曹操軍にとって、劉備の1万に満たない軍勢は、ありんこ以下の存在。
怒涛の勢いで迫ってくる50万の軍勢を前に、劉備軍は蜘蛛の子を散らしたように逃げていきました。空になった新野城に大手を振って入城した曹操軍。ところが、突然曹操軍の頭に矢が降り注ぎます。劉備軍は城内に兵を伏せていたのでした。これにより、曹操軍は撤退を強いられます。それでも兵力を活かしてじりじりと劉備軍を追い詰めた曹操でしたが、劉備を討ち損じてしまったのでした。
その後、曹操軍の南下に対抗するために劉備と孫権が手を組み、あの有名な赤壁の戦いが幕を開けます。曹操軍は80万にまで膨れ上がり、呉を飲み込もうと襲い掛かります。ところが、水上の戦いに慣れていなかった味方の兵には病人が続出。呉に諜報員を送り込むもそれを周瑜に逆に利用されてしまった上に、呉からの間者を受け入れてしまうというミスをしてしまいます。その結果、曹操は歴史的大敗を喫することになってしまいました。大軍をひきつれていたことと、うまいことスパイを送り込めたと慢心していたために死に目に遭った曹操だったのでした。
曹操の弱点まとめ
曹操は奇策に長けた人物でしたが、相手が仕掛けてくる奇策にはけっこう簡単に引っかかっていたようですね。このように、罠にはまってしまうとき、曹操はいつも相手を見くびっていました。曹操の弱点は、すぐに天狗になってしまい、冷静さを失ってしまうところにあったのではないでしょうか。
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