諸葛孔明のライバルとして知られ、中華を統一した国家・晋の基礎を作り上げた司馬懿仲達。三国志演義ではすっかり悪役としてのイメージがついてしまった司馬懿ですが、人柄も悪い人特有の人の悪口を言ったり、利益のために他人を犠牲にするような人だったのでしょうか。
司馬懿は三国無双で紫色の服を着て、ダークで悪役っぽいイメージを出しています。これらの事を考えると司馬懿が悪役だったのと思われがちですが、本当に悪役だったのでしょうか。今回は司馬懿の人柄について触れてみたいと思います。
この記事の目次
司馬懿は三国志演義のせいで悪役イメージが定着した!?
司馬懿はどうして悪役イメージが定着したのでしょうか。司馬懿の悪役イメージが定着した理由は、三国志演義が原因だと思われます。三国志演義では蜀が善玉で魏が悪玉として描かれており、蜀を建国した劉備がヒーロー。魏を建国し、劉備と敵対した曹操が悪役として描かれています。
そして蜀の劉備と魏の曹操が亡くなった後も、この関係は続いていき、劉備の跡をついで二代目のヒーローに諸葛孔明が登場。そして魏は曹操の跡を引き継いで悪役・司馬懿が登場します。孔明は正義の蜀軍を率いて、魏を滅ぼす戦いを行い、司馬懿が正義の蜀軍を打ち砕く役目を得たことで戦う事になります。
結果は司馬懿が孔明率いる蜀軍に勝利することになります。司馬懿は蜀軍の弱点である兵糧切れを狙って時間稼ぎに徹した為、孔明率いる蜀軍が何回も撤退する事に。そして孔明は魏を討伐する事ができず、無念のうちに北伐の最中に亡くなってしまいます。司馬懿はヒーロー孔明の夢を打ち砕いた事と司馬懿の戦い方があまりにも狡猾だった事が三国志演義で描かれてしまった事で悪いイメージがついてしまったと思われます。
悪役ではなく策士だった司馬懿!!
司馬懿は三国志演義では悪役に仕立てられています。しかし司馬懿は本当に悪役だったのでしょうか。私は司馬懿が悪役ではなく策士だったように思えます。その理由はなぜか下記でご紹介しましょう。
司馬懿が策士だった理由その1:敵の弱みを突く
司馬懿が策士だったエピソードをここからはご紹介しましょう。一つ目は北伐戦の出来事です。司馬懿は孔明率いる北伐軍と戦った時、蜀軍の弱点を突いた事です。蜀軍の弱点は益州から運んでくる兵糧の量が少ないことです。
司馬懿は蜀軍の弱点を突くため、あえて孔明と直接対決することなく、蜀軍の兵糧の底が尽きるまで我慢強く砦にこもっています。この司馬懿の戦法は蜀軍の弱点を上手く突き、兵士を減らさない効率のいい方法で、司馬懿が策士でなければ出来ないことでしょう。
しかしこの戦い方には大きな弱点がありました。それは司馬懿率いる魏軍の方が圧倒的に軍勢の数が多いため、少数で戦いを挑んできている蜀軍と戦わずに砦に引きこもっているため、将兵の士気が低下して不満が溜まってしまうことです。司馬懿もこの点は非常に苦労し、何度か将兵に煽られて、蜀軍と直接対決を行い敗北しています。
しかし孔明の五度目の戦いで司馬懿はしっかりと自陣を守り、将兵の不満を爆発させないように気をつけて砦にこもって、蜀軍を退かせることに成功しています。将兵をしっかりと統帥し蜀軍の状況を伺い弱点を突いた、司馬懿でなければできなかった作戦だと思われます。
司馬懿の策士な一面その2:高平陵の変での計算高さ
司馬懿の策士ぶりが分かる逸話として高平陵のクーデターが挙げられるでしょう。
司馬懿は皇帝曹叡から「曹爽と一緒に幼い皇帝を支えるように」との遺言を受けます。司馬懿は遺言の通りに曹爽と二人で三代目皇帝を支えていきます。三代目皇帝が曹叡の跡を継いだ当初は曹爽が司馬懿を立てて、魏の政権が安定していました。
そんな中、曹爽は自分の軍功が無い事で司馬懿に舐められていると勘違いをし、蜀へ攻撃を仕掛けようと会議で提案します。司馬懿は曹爽へ「今、蜀へ攻め込む必要はない!!」と反対しますが、曹爽が司馬懿の意見を無視して蜀へ攻め込むよう会議で決めてしまいます。
ここから司馬懿と曹爽の仲が悪くなっていきます。曹爽は側近から「司馬懿は大きな野望を持っていて危険です」とのアドバイスを鵜呑みにしてしまい、司馬懿にアドバイスを求める事をしないで自分で好き勝手に魏の政権を運営していきます。司馬懿は曹爽のやり方に不満を持ち、病気と高齢を理由に家に引きこもり、表向きは政治に関与することなくニート生活を送っていることをアピール。
しかし司馬懿はニート生活を家で送りながら、曹爽から実権を奪うべく計画を立てていました。曹爽は魏の政権の実権をほとんど握っていましたが、司馬懿がおとなしくしている事を怪しみ部下を司馬懿の見舞いに行かせて、司馬懿の様子を探らせます。
司馬懿は曹爽の部下が来ることを知るとわざとボケ老人を装い、食べ物を口からボロボロとこぼしたり、話の内容をちぐはぐにして痴呆を装います。曹爽の部下は司馬懿のこの様子を知って、司馬懿の家から帰ると曹爽へ司馬懿の様子を報告。曹爽はこの報告を信じて側近や皇帝を連れて高平陵へ向かいます。
司馬懿は曹爽一派が皇帝と一緒に居なくなった事を知ると、ボケ老人の演技をやめて曹爽が管理している武器庫を占拠。司馬懿は自分の行動に大義名分を得るため、皇后へ「曹爽の馬鹿は自分で好き勝手政治を動かしているから権力を奪う命令を出してくれませんか」と進言。
皇后は司馬懿の進言を受け入れ、曹爽や彼の兄弟の権力を剥奪する命令書を司馬懿へ渡します。こうして司馬懿は大義名分と曹爽軍の武力を無効化した後、曹爽が帰ってくる時間を見計らって使者を派遣し、降伏するように伝えます。曹爽は司馬懿の言うことを聞いて降伏しますが、その後司馬懿に処刑されてしまいます。
そして司馬懿は曹爽一派を排除し、魏の最高権力者として君臨することに成功するのです。司馬懿が起こしたこの事件を高平陵の変と言います。司馬懿が策士で計算高くなければ、高平陵の変は成功することはなく、魏の最高権力者としての地位や晋の礎を築くことなんて、できなかったでしょう。策士・司馬懿の計算高さをアピールした政変だと思いませんか。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は司馬懿の人柄をご紹介しました。司馬懿が計算高い人物であることを見抜いた人物がいます。それは曹操です。曹操は司馬懿を「虎狼の相」と評価しています。曹操が評価した「虎狼の相」は「こいつはとんでもない志を持っている」との意味です。しかし虎狼だけの意味は用心深く老獪な事とウィキペディアに記されています。
そこで私は曹操の司馬懿の評価と虎狼の意味の二つを合わせた「警戒心が強く老獪で大きな志を持った人」との評価を司馬懿に当てはまれば、ぴったりだと考えます。上記の虎狼の相の意味であれば正に司馬懿にぴったりで、彼が悪役ではなく、計算高く、策士の司馬懿の人柄がありありと分かると思うのですがいかがでしょう。
【参考】ちくま学芸文庫 正史三国志魏書等
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