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徳川慶喜の隠遁生活![静岡での逸話と訪れるべき地]

2024年8月10日


 

 

徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)と言えば、水戸藩出身で最後の将軍として有名です。高校の日本史の授業で、13代徳川家定(とくがわ いえさだ)の後継者として徳川慶福(とくがわ いえもち)(後の家茂)と一橋(徳川)慶喜との争いや大政奉還(たいせいほうかん)で勉強したと思います。大政奉還後の旧幕府軍と新政府軍の戦いである戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いで敵前逃亡をしてから謹慎生活を送り、恭順の意思を示した人物として勉強したと思います。

 

徳川慶喜について勉強した人は大政奉還した最後の将軍として取り上げられただけで、大政奉還後の生活については知らない人のほうが多いと思います。ここでは、徳川慶喜の大政奉還後の生活について紹介します。鳥羽伏見の戦いで謹慎生活を送ってから静岡で隠居生活を始めます。

 

最初に、静岡での隠居生活に至るまでの過程について取り上げます。次に、徳川慶喜が静岡で過ごした屋敷が浮月楼として残っています。浮月楼と交通アクセスについて紹介します。趣味に没頭した話や静岡の人々が徳川慶喜を「ケイキ様」と慕った逸話を挙げます。最後に、徳川慶喜に従って静岡に移り住んだものの仕事がなかった武士の生活について取り上げます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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徳川慶喜の鳥羽伏見の戦いから静岡隠居生活まで

 

第14代将軍徳川家茂が第二次長州征伐で長州に向かっていましたが、大坂城で病死しました。15代将軍に慶喜を推す声がありましたが、固辞し続けていました。当時天皇だった孝明天皇から15代将軍に指名され、将軍に就任しました。将軍になってからわずか1年で将軍職を辞し、政権を天皇に返上しました。当初、慶喜は薩長と朝廷を加えた新政府のトップとして政権を握るつもりでいましたが、薩長が慶喜に土地と官職を返上するように命令しました。旧幕府軍がその命令に反発して戊辰戦争が始まりました。

 

慶喜は錦の御旗を見ると京都守護職だった松平容保を連れて夜に大坂城を離れて江戸城に逃亡します。慶喜は新政府軍に対して恭順の意思を示します。恭順の意思を示すために、上野の寛永寺で謹慎生活を送ります。その後、水戸の弘道館を経て静岡で謹慎生活を送ります。静岡で謹慎生活が解かれると潤沢な資金を得て悠々自適の隠居生活が始まります。

 

 

徳川慶喜の屋敷跡 浮月楼

 

徳川慶喜は謹慎を解かれてから静岡で20年間の隠居生活を始めます。慶喜が静岡から東京に移ってから屋敷は浮月楼と名付けられました。現在は料亭やホテルが隣接している観光名所となっています。交通アクセスはJR静岡駅から徒歩5分です。車で移動する場合、東名静岡ICより車で15分、新東名静岡ICより車で20分の場所にあります。大変アクセスがしやすい場所にあります。

 

 

多数の趣味を持ち悠々自適の毎日

 

徳川慶喜は33歳から77歳で死亡するまで政治の世界に出ることなく悠々自適の隠居生活を送ります。慶喜は自転車・狩猟・写真など多趣味だったという記録が残っています。ここでは、慶喜の趣味について取り上げます。まず、自転車について取り上げます。当時、自転車は西洋から輸入された珍しい乗り物でした。

 

慶喜は自転車が好きで乗り回していたようですが、あまり上手とは言えず、溝に落ちたり、壁に激突したりしていたという記録が残っています。次に、狩猟について取り上げます。将軍をやめてからも馬・弓の稽古を怠らず、狩猟に出かけていました。弓150本射ることを日課としていましたが、医師から減らすように言われたこともあります。狩猟のとき、飼い犬を連れていたというエピソードもあり、犬好きだったとも言われています。

 

 

終わりに、写真について取り上げます。多趣味の中でも写真は有名です。鉄道の写真を撮っていたことから撮り鉄の元祖ではないかと思われます。写真雑誌に写真を投稿していました。様々な作品を投稿していましたが、評価は散々だったようです。トリビアの泉で大政奉還後の隠居生活で撮った写真が紹介されていましたが、プロカメラマンの加納典明氏が写真としてダメと酷評でした。歴史好きの方には記憶に残っているかもしれません。

 

 

「ケイキ様」と呼ばれ静岡市民に親しまれた慶喜の晩年の逸話

 

ここでは、ケイキ様について取り上げます。旧幕府の役人だった渋沢栄一や静岡の人々に対して、徳川慶喜は自らを「ケイキ」と呼ばせていたようです。「ケイキ」という呼び方が定着したことや近所の子供と仲よく遊んでいたことで静岡の人々からケイキ様と慕われていました。

 

静岡での20年間の隠居生活を経て東京に移ります。東京に移ってから政界に復帰すると思われていましたが、貴族院議員として政界に復帰しますが、家督を譲ってから東京で趣味に没頭した生活を再開します。晩年に皇居(かつての江戸城)で明治天皇に謁見したという記録が残っています。

 

 

「ケイキ様」についてきた武士の生活

 

徳川慶喜が大政奉還をしたことで武士の時代は終わり、武士として働いてきた人たちは失業します。徳川慶喜のもとで働いていた武士も手当を受け取ることができずに失業します。失業した武士が静岡で生活するために始めたのが茶の栽培であると言われています。静岡の茶は日本を代表していますが、失業した武士がいたから茶の栽培が盛んになったと言えるかもしれません。

 

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オフィス樋口

オフィス樋口

自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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