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邪馬台国の滅亡の謎![なぜ滅びたのか?]

2024年8月25日


 

前回までは2回に渡り、邪馬台国の重臣の難升米(ナシメ)の謎について迫りました。今回からは、邪馬台国滅亡から大和朝廷成立までの古代日本史の空白時代に焦点をあて、深く掘り下げていきたいと思います。お楽しみください。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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邪馬台国滅亡の原因。第二次倭国大乱とは?

 

まず、邪馬台国滅亡の原因とは何だったのでしょうか?

 

卑弥呼

 

 

それは、邪馬台国の女卑弥呼(ヒミコ)の即位前に起きた「倭国大乱」が、女王・台与(トヨ)の死後、再び勃発したことが一つの原因だったと考えられます。それは「第二次倭国大乱」とも言うべき出来事だったのではないでしょうか。これは、古代日本史に起きた二度目の大規模な内乱だったようです。この内乱が、邪馬台国を滅亡させた、最初の切っ掛けとなったと考えられます。それでは、その大乱はなぜ起こったのでしょうか?

 

 

魏が滅びたから、邪馬台国も滅びた?

 

そもそも、日本古代史において、二度も「倭国大乱」が起きたのは、中国大陸での混乱が大いに関係しているでしょう。

 

暴れまわる黄巾賊

 

最初の倭国大乱の原因は、後漢帝国の衰退時に起きた「黄巾の乱」でしょう。この乱によって、それまで東アジア地域全体に及んでいた後漢帝国の影響力が弱まります。東アジア地域は各所で分裂の事態になるのです。大陸でも、朝鮮半島でも、倭国と呼ばれた日本列島でも。中国大陸では、全土が内乱の状態となり、三国志の時代の前段階の状況になるのです。

 

 

 

そして、二度目の倭国大乱は、魏帝国の滅亡と西晋帝国が成立し中国大陸を統一した時期、つまり、三国志の時代の終焉時期です。おそらく、邪馬台国は魏のお墨付きで倭国と呼ばれた日本列島をまとめていたのではないでしょうか。虎の威を借る狐とも言えるでしょうが、現代はともかくとして、古では、平和安定のためには、必要な図式だったとも言えるでしょうか。よって、魏が滅亡したときに、邪馬台国も滅びる運命だったと言えるかもしれません。つまりは、邪馬台国の歴史は『三国志』とともにあったことになるでしょうか。

 

 

 

それは日向(ヒナタ)の国よりやってきた?

 

「第二次倭国大乱」の混乱の中で邪馬台国が滅びたのは確かのようです。そして、その時期は、魏の滅亡とほぼ同時期か、あるいは、もう少し後かとも言われています。しかし、どうやって滅びたのでしょうか?いよいよ邪馬台国の滅亡の謎に迫っていきます。

 

アマテラス(古事記)(日本神話)女性

 

ここで参考にしたいのが『古事記』です。神話性が強く、事実と異なる箇所も多いでしょうが、全く事実に依らずに描かれたとは考えられません。事実を誇張させたところがあったにしても、根底に大きな事実があり、それを評価する人々がいて、それが原動力となり、壮大な物語が作られたと考えてもよいでしょう。日本古代史を知る上で、『古事記』を無視する訳にはいかないでしょう。もちろん、同様に参考になる資料として『日本書紀』があります。

 

二つを読み比べると内容の重なるところが多いですが、『古事記』の方が物語性が強く、想像を膨らませやすく、読者の皆様に楽しんで頂けるよう紹介できると思いましたので、今回は『古事記』を資料として優先しますそれでは、話を先に進めます。以前の記事で、天照大御神(アマテラスオオミカミ)が卑弥呼だったかもしれないと紹介しました。それを参考に『古事記』を辿っていくと、邪馬台国滅亡時期に、一人の人物の存在が浮き上がります。

 

 

 

それが、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)です。つまり「神武天皇」(ジンムテンノウ)です。『古事記』では、天照大御神が数々の実績を残した後、天照大御神が登場しなくなり、争乱の事態になった話が描かれるのですが、それは「神武東征」と呼ばれています。これが、「第二国大乱」を指すのではないかと考えられるという説があります。

 

 

邪馬台国VS大和朝廷だった?

 

神武天皇といえば、「神武東征」によって、日向の国(九州)より、大和(近畿)入りし、日本列島の大半を掌握したと言われています。ただし、その大和入りのとき、現地を支配していた長髄彦(ナガスネノヒコ)という人物の勢力に行く手を阻まれ、神武軍は一度は敗北し、撤退を余儀なくされます。

 

その敗北の戦によって、神武の兄の五瀬命(イツセノミコト)は死に至ります。そして、実は、その神武軍を一度は敗北させた、長髄彦(ナガスネヒコ)の勢力こそが、邪馬台国だという説があるのです。そうだとすると、次のように言えるでしょうか。

 

神武軍には、大伴(オオトモ)一族の先祖の道臣命(ミチノオミノミコト)という臣下がいました。つまり、邪馬台国の女王・卑弥呼の治世時の重臣・難升米(ナシメ)の子孫が神武軍についていたことになりますから、邪馬台国の臣下同士の争いという構図になるということです。

 

あるいは、広大な邪馬台国が分裂し、本拠地の大和勢力と新興の九州勢力が日本列島の覇権を廻って争うことになったという構図の見方です。つまりは、大和朝廷と邪馬台国が刃を交えたというのです。

 

 

邪馬台国ライターコーノ・ヒロの独り言

 

それでは、次回は邪馬台国の最期に迫っていきたいと思います。神武軍の遠征過程と、長髄彦(ナガスネヒコ)軍と神武軍の戦いの全貌に迫りたいと思っています。お楽しみに。

 

《参考》

 

◆『新訂 古事記』

(角川ソフィア文庫)

◆『出雲と大和 ― 古代国家の原像をたずねて ―』(村井康彦著・岩波新書)

 

◆『「古事記」の謎 ―神話が語る日本秘史―』

(邦光史郎著・祥伝社黄金文庫)

 

◆『卑弥呼は狗邪国から来た』

保坂俊三 著(新人物往来社)

 

▼こちらもどうぞ

倭国 「魏志倭人伝」 から読み取る当時の日本、邪馬台国と卑弥呼を分かりやすく解説

 

 

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コーノ・ヒロ

コーノ・ヒロ

歴史好きのライターです。 福祉関係の仕事をしつつ、物書きの仕事も色々としています。 小説や詩なども、ときどき書いています。 よろしくお願いします。 好きな歴史人物 墨子、孫子、達磨、千利休、良寛、正岡子規、 モーツァルト、ドストエフスキー など 何か一言 歴史は、不動の物でなく、 時代の潮流に流される物であると思っています。 それと共に、多くの物語が生まれ、楽しませてくれます。

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