卑弥呼率いる、邪馬台国との壮絶な戦の後、狗奴国はどうなったのか?と気になるところでしょう。探っていきましょう!
『魏志倭人伝』にはそのことは一切書かれていません。また、邪馬台国が滅亡に追い込まれたとされる、「神武東征」の時も、狗奴国の存在は出てきませんでしたね。
和睦した?根拠その1
結論から言って、和睦したということではないでしょうか。根拠は、『魏志倭人伝』などの中国の歴史書には、邪馬台国VS狗奴国の戦争の結果が書かれていないということです。しかし、はっきりしているのは、邪馬台国は勝ってはいない、ということなのです。
邪馬台国が勝っていたなら、勝ったと『魏志倭人伝』に書かれているはずです。前に話しましたように『魏志倭人伝』は、魏とその後継者の西晋を持ち上げる意図があったのです。ですから、その魏に臣従の意を示した、邪馬台国も持ち上げられて、書かれるはずです。ですから、勝ったなら、勝ったと書かれるでしょう。
逆に、弱く、敗北した国とは書けないですね。しかし、『魏志倭人伝』の記述を見ると、邪馬台国は継続したと書かれていますから、負けてはない可能性が高いですね。そうすると、和睦したという選択肢が有力になるのです。
和睦した?根拠その2
その後の邪馬台国、大和地域がどうなったか(の歴史)を見ると、見えてくるのです。
出雲系のニギハヤヒノミコトが王位を継ぎ、出雲系の葛城氏が邪馬台国軍の中で強い勢力となったのです。これらのことを併せて考察すると、狗奴国のスサノオ(卑弥弓呼)とも繋がりのあった出雲系が邪馬台国の王権を握るような形になったのです。つまり、最後は、狗奴国が邪馬台国を取り込んだと言えるのでしょうか?
スサノオ(卑弥弓呼)の行方は?
卑弥呼(アマテラス)との交戦中あたりに死去したと考えられるでしょうか。根拠その1は、後に邪馬台国と狗奴国が和睦したからです。これまで好戦的な姿勢を見せてきた、スサノオの存命中の和睦は考えられなかったのではないでしょうか?
根拠その2は、
(邪馬台国VS狗奴国戦争の)戦後となると、卑弥呼の死後ということになるでしょう。卑弥呼の死去の時期は、247年~248年あたりと伝わっていますその頃には、卑弥呼もスサノオも、共に90歳前後に達していたと考えられるでしょう。いつ人生を終えてもおかしくない老年期です。
卑弥呼は、表には顔を出さずに、表へは全て王弟を通して、言伝てしていたと言います。かなりの高齢だったことを想像できます。
(また、この王弟の存在が気になりますか、血縁関係があったかどうかという問題も含め、別の機会に探っていきたいところです。)スサノオも、政治・軍事の第一線から退いていた可能性は高いでしょうし、男性のスサノオの方が、一般的に考えると、女性よりも短命に終わることが多いため、卑弥呼よりも、早く死去した可能性が高いでしょう。スサノオは、卑弥呼=アマテラスの弟になりますが、双子とも伝わっているくらいですから、歳の差は僅かだったと考えられるでしょうか。
邪馬台国VS狗奴国戦争の後半には、狗奴国軍の統率はスサノオの手から離れていたでしょうか。もしかしたら、その時の狗奴国軍の統率は、天孫降臨の際に、諏訪に謹慎させられていたとされる、出雲王・オオクニヌシの次男、タケミナカタ(建御名方神)の手にあったかもしれません。現在でも、諏訪大社や諏訪明神の神様として、崇められている訳ですから、狗奴国の王や総大将の立場なっていたとも考えても不思議ではありません。
スサノオと卑弥呼の墓標
スサノオの死後は、どこに葬られたでしょうか?やはり、狗奴国の根拠地とされる熱田あたりでしょうか。熱田近くにある津島神社(愛知県津島市)の主祭神はスサノオと伝わっているので、その可能性も高いと考えられるでしょう。一方で、卑弥呼の墓は、大和の箸墓古墳(はしはかこふん)であったとしますと、加えて、アマテラス=卑弥呼だったとすると、なぜ、卑弥呼(アマテラス)は伊勢で祀られているのか?という疑問も出てきます。
なぜ、スサノオの領域の東海へ?ということなのです。おそらく、卑弥呼の死後、数年の時を経て、卑弥呼はアマテラスとして、伊勢へ祀られたのではないでしょうか!それは、邪馬台国の王位を出雲系のニギハヤヒノミコトが継いだためでしょう。
ニギハヤヒが、アマテラスとして伊勢に祀ることを始めたとも考えられます。ニギハヤヒが邪馬台国の王位を継いだ頃は、狗奴国とは和睦をしていて、一層の強い結びつきの必要があったからではないでしょうか?
邪馬台国と狗奴国の抗争の遺恨を消し去る必要があったのです。そこで、卑弥呼は、アマテラスとして伊勢へ、海を挟んで向かい側の熱田には、 スサノオが祀られました。姉と弟が仲良く向かい合わせに、という意味合いもあったかもしれません。
連携したのは、新たなる敵の影に備えて?
そして、その狗奴国と邪馬台国の連携は、迫り来る勢力に備えて、団結する必要があったのでは?とも考えられそうです。その迫り来る勢力こそ、カムヤマト(神武天皇)だったのではないでしょうか?
【参考資料】
◆新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝〈1〉 (岩波文庫)
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