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邪馬台国VS狗奴国の戦乱後[狗奴国の存在は?スサノオはどうなったの?]

2024年11月5日


 

卑弥呼(ひみこ)率いる、邪馬台国(やまたいこく)との壮絶な戦の後、狗奴国(くなこく)はどうなったのか?と気になるところでしょう。探っていきましょう!

 

魏志倭人伝の表紙 書類

 

魏志倭人伝(ぎしわじんでん
)
』にはそのことは一切書かれていません。また、邪馬台国が滅亡に追い込まれたとされる、「神武東征」の時も、狗奴国の存在は出てきませんでしたね。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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和睦した?根拠その1

卑弥呼 HMK48

 

結論から言って、和睦(わぼく)したということではないでしょうか。根拠は、『魏志倭人伝』などの中国の歴史書には、邪馬台国VS狗奴国の戦争の結果が書かれていないということです。しかし、はっきりしているのは、邪馬台国は勝ってはいない、ということなのです。

 

邪馬台国が勝っていたなら、勝ったと『魏志倭人伝』に書かれているはずです。前に話しましたように『魏志倭人伝』は、()とその後継者の西晋(せいしん)を持ち上げる意図があったのです。ですから、その魏に臣従の意を示した、邪馬台国も持ち上げられて、書かれるはずです。ですから、勝ったなら、勝ったと書かれるでしょう。

 

逆に、弱く、敗北した国とは書けないですね。しかし、『魏志倭人伝』の記述を見ると、邪馬台国は継続したと書かれていますから、負けてはない可能性が高いですね。そうすると、和睦したという選択肢が有力になるのです。

 

 

 

和睦した?根拠その2

ニギハヤヒ(日本神話)

 

その後の邪馬台国、大和地域がどうなったか(の歴史)を見ると、見えてくるのです。

 

狗奴国の王・卑弥弓呼

 

出雲(いずも)系のニギハヤヒノミコトが王位を継ぎ、出雲系の葛城氏が邪馬台国軍の中で強い勢力となったのです。これらのことを併せて考察すると、狗奴国のスサノオ(卑弥弓呼(ひみここ))とも繋がりのあった出雲系が邪馬台国の王権を握るような形になったのです。つまり、最後は、狗奴国が邪馬台国を取り込んだと言えるのでしょうか?

 

 

スサノオ(卑弥弓呼)の行方は?

スサノオノミコト(日本神話)

 

卑弥呼(アマテラス)との交戦中あたりに死去したと考えられるでしょうか。根拠その1は、後に邪馬台国と狗奴国が和睦したからです。これまで好戦的な姿勢を見せてきた、スサノオの存命中の和睦は考えられなかったのではないでしょうか?

 

根拠その2は、

 

狗奴国は邪馬台国と対立

 

(邪馬台国VS狗奴国戦争の)戦後となると、卑弥呼の死後ということになるでしょう。卑弥呼の死去の時期は、247年~248年あたりと伝わっていますその頃には、卑弥呼もスサノオも、共に90歳前後に達していたと考えられるでしょう。いつ人生を終えてもおかしくない老年期です。

 

卑弥呼は、表には顔を出さずに、表へは全て王弟を通して、言伝てしていたと言います。かなりの高齢だったことを想像できます。

 

(また、この王弟の存在が気になりますか、血縁関係があったかどうかという問題も含め、別の機会に探っていきたいところです。)スサノオも、政治・軍事の第一線から退いていた可能性は高いでしょうし、男性のスサノオの方が、一般的に考えると、女性よりも短命に終わることが多いため、卑弥呼よりも、早く死去した可能性が高いでしょう。スサノオは、卑弥呼=アマテラスの弟になりますが、双子とも伝わっているくらいですから、歳の差は僅かだったと考えられるでしょうか。

 

邪馬台国VS狗奴国戦争の後半には、狗奴国軍の統率はスサノオの手から離れていたでしょうか。もしかしたら、その時の狗奴国軍の統率は、天孫降臨の際に、諏訪に謹慎させられていたとされる、出雲・オオクニヌシの次男、タケミナカタ(建御名方神)の手にあったかもしれません。現在でも、諏訪大社や諏訪明神の神様として、崇められている訳ですから、狗奴国の王や総大将の立場なっていたとも考えても不思議ではありません。

 

 

 

スサノオと卑弥呼の墓標

アマテラスVSスサノオ(古事記)

 

スサノオの死後は、どこに葬られたでしょうか?やはり、狗奴国の根拠地とされる熱田あたりでしょうか。熱田近くにある津島神社(愛知県津島市)の主祭神はスサノオと伝わっているので、その可能性も高いと考えられるでしょう。一方で、卑弥呼の墓は、大和の箸墓古墳(はしはかこふん)であったとしますと、加えて、アマテラス=卑弥呼だったとすると、なぜ、卑弥呼(アマテラス)は伊勢で祀られているのか?という疑問も出てきます。

 

なぜ、スサノオの領域の東海へ?ということなのです。おそらく、卑弥呼の死後、数年の時を経て、卑弥呼はアマテラスとして、伊勢へ祀られたのではないでしょうか!それは、邪馬台国の王位を出雲系のニギハヤヒノミコトが継いだためでしょう。

 

ニギハヤヒが、アマテラスとして伊勢に祀ることを始めたとも考えられます。ニギハヤヒが邪馬台国の王位を継いだ頃は、狗奴国とは和睦をしていて、一層の強い結びつきの必要があったからではないでしょうか?

 

邪馬台国VS狗奴国

 

邪馬台国と狗奴国の抗争の遺恨を消し去る必要があったのです。そこで、卑弥呼は、アマテラスとして伊勢へ、海を挟んで向かい側の熱田には、 スサノオが祀られました。姉と弟が仲良く向かい合わせに、という意味合いもあったかもしれません。

 

連携したのは、新たなる敵の影に備えて?

カムヤマト(日本神話)

 

そして、その狗奴国と邪馬台国の連携は、迫り来る勢力に備えて、団結する必要があったのでは?とも考えられそうです。その迫り来る勢力こそ、カムヤマト(神武天皇)だったのではないでしょうか?

 

【参考資料】

天白紀行 増補改訂版 (日本の古層1)

神殺し・縄文 (人間社文庫―日本の古層)

出雲と大和――古代国家の原像をたずねて (岩波新書)

新書821伊勢と出雲 (平凡社新書)

新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝〈1〉 (岩波文庫)

 

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コーノ・ヒロ

コーノ・ヒロ

歴史好きのライターです。 福祉関係の仕事をしつつ、物書きの仕事も色々としています。 小説や詩なども、ときどき書いています。 よろしくお願いします。 好きな歴史人物 墨子、孫子、達磨、千利休、良寛、正岡子規、 モーツァルト、ドストエフスキー など 何か一言 歴史は、不動の物でなく、 時代の潮流に流される物であると思っています。 それと共に、多くの物語が生まれ、楽しませてくれます。

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