晋の名将・羊祜(ようこ)。羊祜は孫呉討伐の作戦案を考えて司馬炎に提出するも、受け入れてもらえませんでした。羊祜は病にかかっておりましたが一度反対された孫呉討伐案を修正して、詳細な孫呉の内容と討伐作戦に関する書類をまとめて司馬炎に再度提出。
だが羊祜は司馬炎から孫呉討伐に関する是非をもらう前に亡くなってしまいます。
羊祜は亡くなる間際に杜預(どよ)を後継に指名して亡くなります。また羊祜は孫呉討伐の鍵を握ることになるのは水軍であると思っており、元部下であった王濬(おうしゅん)に大型船の造船と水軍を整えてくれるように懇願。
王濬は羊祜の懇願を受けて孫呉討伐のための水軍整備と大型船の建造を行います。王濬は数年かけて水軍の整備と大型船を建造を完了。そして羊祜の死後羊祜の志を継いだ二人の晋の将軍は孫呉討伐軍に参加することに。果たして孫呉を滅亡させることができたのは杜預と王濬どちらだったのでしょうか。
この記事の目次
孫呉討伐戦遂に始動
司馬炎(しばえん)は羊祜が命をかけて作り上げた詳細な孫呉討伐に関する作戦案を拝見。羊祜が提案してきた時には涼州(りょうしゅう)の異民族達が、国境を攻撃してきたこともあり孫呉討伐軍を出すことができませんでした。
(他にも群臣達の勢力争い、司馬炎の後継者についての問題などがあり・・・・)
しかし涼州(りょうしゅう)で暴れまわっていた異民族を討伐することに成功し、晋の軍勢をまとめて孫呉へ向けることが出来る状態になると、孫呉討伐の命令を諸将へ出すことにします。
羊祜の跡を継いだ杜預にも司馬炎から孫呉討伐へ出陣するように命令が下ります。もちろん羊祜から水軍の整備と大型船建造の依頼を託されていた王濬にも長江を下って、孫呉の領地へ攻め入るように命令が来るのでした。こうして羊祜の志を受け継いだ杜預と王濬は孫呉へ向けて出陣することになります。
孫呉討伐軍の侵攻経路と総大将をご紹介
司馬炎は孫呉討伐軍を結成すると総大将に無理やり賈充(かじゅう)を任命。賈充は孫呉討伐をすることに最後まで反対しておりましたが、司馬炎から「君がもし孫呉討伐へ赴かいのであれば、僕が自ら総大将になって行くよ」と半ば脅迫に近い事を言われたため致し方なく総大将の位を拝命した賈充でした。
司馬炎は賈充を総大将として任命した後、孫呉討伐軍の侵攻経路を6つに分けて討伐軍を編成。まず孫呉の首都建業方面へ出兵するのは司馬一族・司馬伷(しばちゅう)率いる青州軍。第二軍は王渾(おうこん)率いる淮南一体の軍勢で濡須口の近くの江西(こうせい)へ。第三軍は豫州刺史(よしゅうしし)王戎(おうじゅう)が武昌(ぶしょう)を攻撃。第四軍は胡奮(こふん)率いる軍勢が夏口へ。第五軍は杜預率いる荊州軍で孫呉が領有している荊州・江陵(こうりょう)攻略へ。
最後の第六軍は王濬率いる水軍部隊で長江沿岸の孫呉の諸城を陥落させ、孫呉の首都建業へ迫ることを目的としておりました。こうして侵攻軍の配置が完了されると一斉に孫呉へ向けて攻撃を開始するのでした。
「破竹の勢い」で江陵を攻略そして・・・・
杜預は孫呉へ攻撃の命令が下されると一気に江陵へ迫って、計略を用いて江陵城を簡単に攻略してしまうのでした。杜預は計略を用いて簡単に江陵城を陥落させたことで、晋軍に被害はほとんどありませんでした。
孫呉の諸将は荊州方面の要衝・江陵城が陥落したことによって大いに動揺。孫呉の諸将が守っていた城は杜預に降伏する旨を記した書面を送り付けてきます。杜預に届いた孫呉の諸将からの降伏文書は長江沿岸の孫呉の城だけでなく、遠く荊州から離れた交州(こうしゅう)、広州(こうしゅう)からも届いてくることに。
杜預はこれらの手紙を司馬炎に送り届けた後、司馬炎から降伏してきた諸将をそのままにし、安心してやるようにとの命令が下ってきます。杜預は司馬炎の言葉をそのまま降伏してきた孫呉の諸将へ伝えてやることに。孫呉の諸将は司馬炎の言葉が伝わると安心して晋に服従することになります。こうして長江沿岸と内陸部にある荊州方面の孫呉の城は簡単に陥落するのでした。さて杜預が孫呉攻略戦に参加した時「破竹の勢い」と言う故事成語が生まれます。「破竹の勢い」とは一体どのような意味なのでしょうか。
「破竹の勢い」の意味とは・・・・
杜預は江陵を攻略した後部下達から「江南に割拠していた孫呉を簡単に攻略することはできません。更にこれから江南地方は夏になり、江南各地で疫病が発生すると思われます。ここは江陵から先に攻略軍を進めるのではなく、一旦江陵で停止して冬になるのを待って攻撃軍を進めたほうが、損害を少なくして孫呉を攻略することができるでしょう。」と進言。しかし杜預は部下達へ「今簡単に江陵城を攻略することができ、兵の士気は高まっている。
この兵の士気を低下させることなく敵軍へ攻撃を仕掛ければ、敵は簡単に敗れるであろう。例えるならば竹を割る程度の簡単さで勝つことが出来るであろうよ」と述べます。竹を破る勢いで敵を倒すことから「破竹の勢い」として、後世にまで残ることになります。
話がそれましたが杜預は荊州一帯を平定した後、軍勢を進軍させることなく停止させるのでした。一体どうしてなのでしょうか。
孫呉討伐の役割分担があった為
杜預は江陵を陥落させた後、軍勢を孫呉の首都・建業へ進むことをせずに停止させます。なぜ杜預は破竹の勢いで建業まで進ませなかったのか。それは杜預の軍勢に役割があったからです。
杜預の役割は孫呉が領有していた荊州方面を平定するためでした。そのため杜預は軍勢を建業へ進ませることをしないで停止させるのでした。こうして杜預の役割は終わることになるのです。そしてここから王濬が水軍を率いて活躍していくことになります。
水軍を率いて孫呉の領土を奪いまくる
王濬は益州で建造した新大型船と精鋭水軍を率いて長江上流から出撃していきます。王濬は水軍を率いて出撃すると夷陵(いりょう)・西陵(せいりょう)等を陥落。陸抗の息子・陸景と陸妟を捕縛して討ち取ることに成功。こうして王濬は荊州方面の孫呉の城を陥落させると上官であった杜預と合流。王濬の水軍は二つの指揮官に率いられることになっており、建平以東は杜預が指揮することになっておりました。
そして秣陵(ばつりょう)近辺からは、第二軍司令官・王渾が率いることになっていました。王濬は杜預と面会してこれからどうすればいいか指示を仰ぎます。杜預は「連戦連勝している兵の勢いを殺すのはよくない。兵の勢いは大切にするべきで、今の勢いで建業へ攻め込むべし」と王濬へ進言。王濬は杜預の進言を受け入れて建業へ向けて軍勢を進発していきます。
第二軍司令官からの進軍中止命令を無視
王濬は秣陵近辺に到着すると王渾から「こちらの司令部へ来て会議を開きたいから、進軍を中止するように」と命令が届きます。王濬は杜預から兵士の勢いを殺すのは良くないと言われていたので、王渾の要請を無視して建業へ向けて進発していきます。王渾は王濬が命令を無視して建業へ突き進んでいる事を知ると再度使者を出して「ちょっと待って!!命令無視するのなら軍令違反で訴えるよ」と脅迫。
王濬は再び王渾から軍勢を停止するように命令が来ると使者へ「追い風を受けて船が進んでいるから簡単に止まることができない」と伝えるように言います。そして王濬は追い風のまま進み続け建業近くの防衛ライン・牛渚(ぎゅうしょ)・石頭城(せきとうじょう)を陥落。
孫呉のラスト・エンペラー孫皓(そんこう)は、王濬の軍勢が牛渚・石頭城を陥落させたことを知ると晋軍第一司令官・司馬伷や王渾・王濬へ晋へ降伏する使者を送ります。こうして孫呉は晋に降伏することになります。王濬は軍勢を進めて建業へ入城を果たし、ついに三国志の時代が終わり晋の統一王朝が実現することになります。
三国志ライター黒田レンの独り言
孫呉の首都建業を陥落させた人物は杜預でも王濬でもありませんでした。しかし孫呉のラスト・エンペラー孫皓が降伏するきっかけを作ったのは、王濬が建業近辺の要衝を陥落させたことを考えれば、孫呉に止めを刺した人物=王濬と言えるのではないのでしょうか。
ですが王濬は一勢力をなした英雄ではなく晋の将軍です。すると晋は勢力を拡大して孫呉を超えて強くなった事と孫呉に勢力を保持させることのできる名将が生まれなかった事など、様々な要因が重なって孫呉滅亡が滅亡したと言えるでしょう。という事は孫呉が滅亡させたのは杜預でも王濬でもなく、晋の勢力の強大さと孫呉内部での問題であったと言えるのではないのでしょうか。話のオチがテーマ通りでなくてすいません。しかし突き詰めていくと上記で説明した理由に落ち着くと思うのですが、皆様はどのように思いますか。
参考 ちくま学芸文庫 正史三国志・呉書 陳寿著・小南一郎訳など
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