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徳川慶喜の真実!英雄かヘタレか、[最後の将軍の実像]

2024年11月27日


 

NHK大河ドラマ西郷どんにおいて、主人公、西郷隆盛(さいごうたかもり)最大のライバルになるのが徳川慶喜(とくがわよしのぶ)です。ドラマでは、まだ一橋家の養子で一橋慶喜と言い「ヒー様」と呼ばれています。

 

徳川幕府最後の将軍として、自ら政権を朝廷に返上するという古今未曽有の奇跡を行い日本を内乱から救った英雄という評価がある反面、言う事がコロコロと変わり、味方を見捨てて逃げてしまう卑怯者という評価もあります。では、実際、慶喜はどんな人なのかを解説してみましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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徳川斉昭の七男として江戸に生まれた慶喜

 

徳川慶喜は、1837年天保8年の9月29日に9代水戸藩主、徳川斉昭(なりあき)の七男として江戸小石川の水戸藩邸で誕生しました。幼少時の名前は七郎麻呂です。母は有栖川宮識仁(ありすがわのみや・たかひと)親王の娘、吉子(よしこ)女王で慶喜には皇族の血が入っている事になります。

 

この事実は、尊王藩である水戸の風土と相まって、遥かな後に慶喜の政治判断に大きな影響を及ぼします。江戸生まれの慶喜ですが、水戸藩は徳川光圀(みつくに)以来、嫡男以外は国元で厳しく育てる習慣があり慶喜は生後7か月で水戸に移動しています。

 

父の徳川斉昭は、慶喜を厳格に育てる事になりました。例えば幼少時の慶喜の寝相が悪いと聞くと、慶喜の枕の両側に剃刀の刃を立てさせます。聡明な慶喜は内心「どうせ寝入ったら外すだろう」と高を括っていましたがそれでも、視界に剃刀があるので寝心地が悪くいつしか寝相は治ったそうです。また、万が一刺客に襲われても右腕を斬られないように、常に右腕を下にして寝て一度も右腕を上にした事がありませんでした。

 

 

神童と言われ御三家、一橋家を相続

 

斉昭の厳格な教育もあってか、慶喜は学問の出来る聡明な少年に成長します。父の斉昭も慶喜の聡明さを喜び、家督を継いでいた慶篤(よしあつ)に万が一の事があった場合の備えとして、慶喜を他家にはやらずに手元に置いていました。当時は、大名の子は嫡男以外は、支藩や全国の後継ぎのいない藩に養子に出すのが当たり前でしたので、慶喜が大事にされた事が分かります。

 

しかし、慶喜の英明さは、12代将軍の徳川家慶(いえよし)の耳にまで入ります。こうして、1847年に10歳の慶喜の元に老中、阿部正弘(あべまさひろ)がやってきて御三卿である一橋家の養子に入るように命令がきたのです。

 

 

・御三卿って何?

御三卿とは、一橋、田安(たやす)、清水という三家を意味しています。

8代将軍の徳川吉宗が二男の宗武(むねたけ)、四男の宗尹(むねただ)に

それぞれ一橋、田安の家を起こさせ、9代将軍の徳川家重(いえしげ)が

二男の重好(しげよし)に清水家を起こさせ御三卿になりました。

御三家と並んで、本家で将軍の血筋が途絶えた時に後継者を出す仕組みです。

また、御三家と言っても将軍を出せるのは尾張と紀州だけで水戸は出せないので

慶喜が一橋家に入るのは、将来将軍になる為の布石でもありました。

 

こうして当時、松平昭致(あきむね)と名乗った慶喜は一橋家を継ぎました。実は12代将軍の家慶は病弱で凡庸な実子の家定(いえさだ)に失望していて、慶喜を一橋家に入れた上で自分の後継者にしようと考えていたようです。ですが、これには老中の阿部正弘が猛反対して流れてしまいます。後には島津斉彬(しまづ・なりあきら)と共に慶喜を担いだ阿部ですがこの頃は逆の立場でした。

 

 

将軍後継者問題で開明派に担がれる

 

一橋家の当主に収まった慶喜に再びスポットがあたるのは1853年7月8日アメリカ東インド艦隊司令長官、ペリー提督が日本に来航し開国を迫った時です。一年間の猶予をくれとペリーをかわした幕府ですが、心労から病弱な家慶は病死、さらに輪を掛けて病弱な息子の家定が13代将軍に就任したのです。

 

おまけに家定には、子供もありませんでしたから、日本の行く末を心配して社会は大騒ぎになります、さらに騒動を見越したペリーが1年の約束を無視、年が明けるとすぐにやってきて開国を迫り、幕府は日米和親条約を結びます。

 

「こんな大事な時に、病気で寝込んでばかりいる将軍様では困るせめてしっかりした後継者を立てておかないと日本が大変だ」こうして、外国の脅威から日本を守ろうと考える大名や民間の志士が英明の誉れ高く、また尊王の藩として有名な水戸出身の一橋慶喜を後継者にと運動を開始し始めたのです。

 

 

こうした人々を一橋派と言い、薩摩の島津斉彬、水戸の徳川斉昭、越前の松平春嶽(まつだいら・しゅんがく)宇和島の伊達宗城(だてむねなり)尾張の徳川慶勝(よしかつ)など雄藩と言われた開明派の大名でした。彼等は幕府の政治から締め出されており、慶喜を将軍にし譜代大名が独占する閉鎖的な幕府の政治に自分達も参画したいという野心があります。もちろん、260年政治を独占してきた譜代大名も黙ってはいません。あっちが能力主義なら、こっちは血統だと御三家の紀州から12歳の徳川慶福(よしとみ:後の家茂)を担ぎ対抗してきました。

 

 

こちらを南紀派といい、代表者は彦根藩主の井伊直弼(いいなおすけ)です。当初は19歳の慶喜を担ぐ一橋派が有利だったのですが、慶喜の父の斉昭が大奥と仲が悪かった事や、有力な後ろ盾だった島津斉彬が急死した事で力を失い政治の実権は大老に就任した井伊直弼に握られてしまいます。こうして、一橋派は弾圧される事になり慶喜の将軍就任は失敗したのです。ただ、慶喜は担がれただけで将軍就任に前向きではなく、「将軍になってからケチをつけられたら面倒だ、むしろ今失敗して良かった」そんな感想を残しています。

 

 

将軍後見職として京都で辣腕を振るい始める

 

将軍就任に乗り気ではなかった慶喜ですが、一橋派として井伊直弼ににらまれ煽りを受けて謹慎処分になりますが、慶喜は抵抗しませんでした。

 

そんな直弼も天皇の許可なく日米修好通商条約を締結したり、これに反対する尊攘派や一橋派の人間を捕えて処刑するなどの安政の大獄と呼ばれる恐怖政治を行い1860年の3月3日、江戸城に登城する途中に水戸藩士等に襲撃され殺害されます。これを桜田門外の変といいますが、幕府は前代未聞の大事件に弱気になり、井伊直弼が処分した人々を次々に許していき、同年9月4日慶喜も解放されました。

 

桜田門外の変とは何?桜田門外の変を簡単に解説

 

1862年、薩摩藩より島津久光が藩兵700名と勅使の大原重徳(しげとみ)を伴い上洛朝廷や雄藩の要望を盛り込んだ建白書を持って江戸に入りました。幕府の許可のない無断上京ですが、井伊を暗殺され弱気になっている幕府は叱って追い返す事も出来ず、久光が持ってきた建白書の大半を受け入れます。この建白書には、徳川慶喜を将軍後見職に就けるという条件があり慶喜は、いまだ根強い人気を背景に中央政界にカンバックしました。

 

ここで慶喜は、参勤交代の日数の縮小や京都守護職の設置、軍制改革を行い260年の歳月で老朽化している幕府の改革に当たりました。一方で慶喜は尊攘派の突き上げを受けて幕府に過激な要求をする朝廷には、強硬な態度を見せる場面もあり、

 

攘夷を実行せよ、条約も破棄しろと仰せなら朝廷が自ら政治を執られよ!それが無理なら従来通り幕府に権限を任せられるべきだ」と発言したりかと思えば、朝廷の要求を入れて、攘夷の為に横浜鎖港を決定してしまい、「横浜を閉じれば外国と戦争になる」と猛反発する幕閣や、島津久光、松平春嶽と激しく衝突しています。朝廷は「攘夷決行をする気があるなら将軍が上洛して誠意を見せるがスジ!それでこそ誠意大将軍である」として圧力を掛けたので抗しきれない幕府は260年の慣例を破り、14代将軍、徳川家茂(いえもち)の上洛を決定します。

 

 

この時にも、慶喜は将軍後見職として先に上京して朝廷と折衝しますが、相変わらず、朝廷と幕府どちらの顔も立てようとする慶喜は、周囲には糸が切れた凧のように見え、「二心様」と陰口を叩かれました。特に、攘夷祈願の為に家茂が孝明天皇と共に石清水八幡宮へ参詣する時には攘夷決行の言質を取られる事を恐れた慶喜は、家茂に仮病を使わせて辞退。代わりに慶喜が同行するなど小学生並の小細工もやっています。

 

一方で慶喜は、天皇の影に隠れて過激な攘夷論を吐き続ける長州藩排除の為薩摩藩や会津藩等と陰謀をめぐらし、1863年の8月18日、京都御所の警備から長州藩兵を排除し、三条実美(さんじょう・さねとみ)など過激な攘夷派の公卿7名を京都から追放します。これを八・一八の政変と言います。

 

 

かくして、尊攘派の勢力を一掃できた慶喜ですが、横浜鎖港の方針には固執これに猛反対の、松平春嶽、島津久光、伊達宗城、親幕派の中川宮朝彦親王と対立し慶喜は故意に泥酔して参預会議に出席すると、罵詈雑言をぶちまけて全員を中傷し折角、長州藩を排除してまとめ上げた参預会議は空中分解しました。

 

・・・・まとめてはブチ壊す、この人本当に何がしたいんでしょうか?

 

 

意外!勇敢な慶喜、禁門の変で長州軍に自ら突撃する

 

慶喜は泥酔して暴言を吐いて参預会議を潰した責任を取り1864年3月25日に将軍後見職を辞職し今度は禁裏御守衛総督(きんりぎょしゅえいそうとく)に就任します。この仕事は京都御所を守備する仕事であり、幕府の臣だった将軍後見職から鞍替えし天皇の家臣としての立場になったという事のようです。横浜鎖港に固執して雄藩の大名からそっぽを向かれた慶喜は、ホームグラウンドの水戸藩の武田耕雲斎(たけだ・こううんさい)や父の徳川斉昭の実子が藩主を務める岡山藩、鳥取藩と連携し、なおも朝廷の意向に沿い横浜鎖港を推進しようとします。

 

しかし、意外な勢力が慶喜グループを崩壊に導く事になります。水戸藩で徳川慶喜の将軍就任を待ち望み、横浜鎖港を主張する天狗党が発生、武田耕雲斎を首領に担いで800名を率いて京都に向けて進軍を開始しました。この天狗党の処遇を巡り、処罰すべしという派と処罰すべきではないという派で幕府は真っ二つになり、慶喜の盟友で政事総裁職、松平直克(なおかつ)は辞任する事になり、慶喜の派閥は力を失いました。天狗党は、慶喜擁立の為に挙兵したのですが、そんな事は預かり知らない慶喜はドライに切り捨て武田耕雲斎や藤田小四郎を処刑する事に賛成しています。

 

 

 

1864年の7月、八・一八の政変で京都を追われた長州藩の尊攘派が兵を率いて京都に攻め上ってきます。彼らは幕府に籠絡された天皇の目を醒まさせ長州までお連れするという壮大な妄想を企てていました。ここに至って、それまで尊攘派に同情的だった慶喜は完全に尊攘派を見限ります。自分達の思い通りにならないからと言って兵を率いて京都を戦火に巻き込むとは禁裏御守衛総督の立場としても断じて許されないと考えたのです。

 

徳川慶喜は、会津の松平容保(まつだいら・かたもり)や薩摩の西郷隆盛と連携して御所の警備を固め、突入してきた長州軍と激戦を開始します。世に言う禁門の変です。慶喜は歴代の徳川将軍の中で唯一、乗馬もせずに徒歩で長州兵に斬り込みます。その奮戦ぶりと用兵は凄まじく家康の再来とまで謳われました。

 

この頃から慶喜は尊攘派から完全に距離を取り、会津(あいず)藩主、松平容保、桑名(くわな)藩主、松平定敬(まつだいら・さだたか)のような佐幕派の大名と緊密に連携する体制、一桑会(いっそうかい)を組織し以後は幕閣とも薩摩藩のような尊王派の諸藩とも一定の距離を取り京都で活動します。

 

 

外国の圧力にブチ切れ天皇を脅迫、安政五か国条約の許可を得る

 

さて、第一次長州征伐の後、慶喜には西洋列強の圧力が襲いかかります。1858年に幕府の独断で調印されたものの、まだ天皇の勅許(許可)を得ていない安政五か国条約を一刻も早く正式に承認しろというのです。問題になっていたのは、江戸、大阪での自由貿易の開始と新潟と兵庫の開港です。同条約は歴代の老中、大老が何とか天皇の承認を得ようとして果たせず1862年に五か年の延期を承認させましたが、それから3年経過し1865年になっても何の動きもないので、列強は痺れを切らしたのです。

 

「モウイイヨゥ!幕府ニデキナイノナーラ 直接テンノーニ許可ヲモラウヨ!」

 

そうして、西洋列強は京都とは目と鼻の先である兵庫に軍艦を差し向けて、朝廷と直接交渉をしようと言いだしたのです。慶喜からすれば冗談ではありません、ただでさえ権威がガタ落ちしている幕府この上で西洋列強が天皇と直接交渉しては、幕府いらなくね?という事態になり体制が崩壊するのは目に見えています。

 

「ちょっと待って!必ず天皇を説得するからお願い!」

 

こうしてようやく列強を説得した慶喜は幕府の沽券(こけん)を掛けて一昼夜に及ぶ大会議をやり抜きます、それでも勅許を渋る孝明天皇に対しては

 

 

「許可が下りないンなら私は責任を取って切腹します!家臣が怒って暴発しても、あたしゃ死んでますからネ、もうどうなっても知りませんよ!」

まさかの伝家の宝刀、死ぬ死ぬ脅迫で公卿と天皇を脅し、京都に近い兵庫開港以外の条約の許可を得る事に成功したのです。井伊大老でさえ出来なかった幕府懸念事項をほとんど解決した慶喜の名声は一時的ではありますが急上昇します、死ぬ死ぬ詐欺のお陰ですね。

 

 

周囲の説得で渋々15代将軍に就任

 

1866年、第二次長州征伐の最中、元々病弱だった14代将軍徳川家茂が21歳で死去そうでなくても長州軍に連敗していた幕府なので、慶喜は会津や朝廷上層部の反対を押し切り天皇から休戦の詔勅を引きだして軍を引き上げます。

 

このまま続けても幕府の弱さが露呈するだけなので、これは慶喜の英断でしょう。さて、家茂が死去した事で、再び将軍後継者問題が勃発します。大奥や篤姫(あつひめ)、和宮(かずのみや)は慶喜が大嫌いなので、当時3歳の田安亀之助(後の徳川家達)を15代将軍に推しますが、こんな非常時に3歳の将軍は現実的ではなく、老中、板倉勝静(いたくらかつきよ)小笠原長行(おがさわらながゆき)が一部の反対を抑えて慶喜へ将軍就任を打診します。

 

しかし、慶喜は徳川家当主の地位には就いたものの、将軍への就任は渋ります。1866年の8月に打診を受けてから12月まで4か月にわたり返事をしなかったのです。この点については慶喜は将軍にはなりたくなかったのだという説と、将軍にはなりたいが、渋々就任してみせて幕府に恩を売ろうとしていたという説があり真相は闇です。

 

ただ、12月5日に将軍宣下を受けて就任すると、慶喜は獅子奮迅の働きを開始しました。すでに政治の中心が江戸から京都に移った事を自覚し、江戸城には入らず、逆に江戸から幕臣を呼び寄せて畿内での地盤を強化します。政治的には、基盤である一桑会の連携を強化しつつ、これまで対立していた江戸の幕閣とも和解して、勘定奉行の小栗忠順(おぐりただまさ)を起用して本格的な幕府軍の近代化に取り掛かります。

 

薩摩に接近したイギリスに対抗して幕府に接近してきたフランスと連携し、240万ドルの資金援助を受けて、横須賀造船所を建造し軍事顧問団を呼んで幕府軍の質の強化を図ると共に、老中の月番制を廃止、陸軍総裁、海軍総裁、会計総裁、国内事務総裁、外国事務総裁を設置します。これは、陸軍大臣、海軍大臣、財務大臣、内務大臣、外務大臣に対応する役職で慶喜の老朽化した幕府を改革し近代国家に生まれ変わらせようという考えが垣間見れます。さらに慶喜は公武合体策を独自に推進し、公卿(くぎょう)から正室を迎えるとともに、摂政関白の地位を得るように朝廷に工作したようです。

 

 

自分が朝廷の要職を占める事で幕府と朝廷を動かし、薩長の介入を阻止しようと画策したのです。長州征伐で幕府を撃退しアゲアゲだった桂小五郎(かつらこごろう)や西郷、大久保は顔面蒼白になって狼狽したと言われています。

 

 

衝撃!大政奉還は日本国大統領への布石だった

 

徳川400万石を手中にした慶喜は怖いモノなしで、孝明天皇が渋った兵庫開港の許可を明治天皇からあっさりと得てしまいます。

 

これを違勅であると、伊達宗城、山内豊信(やまうちとよのぶ)松平慶永(まつだいらよしなが)、島津久光の四侯会議が慶喜を糾弾する為に召集されますが、とにかく議論に強く粘着質の慶喜は、長時間の会議に耐えことごとく異論を退けて完全勝利しました。かくて、四侯会議は崩壊、西郷と大久保は方針を転換、武力倒幕に舵を切ります。そして、偽の討幕の密勅を偽造し武力で幕府を倒そうと計画しました。

 

 

しかし、このような薩長の動きは慶喜は把握していました。そこで慶喜は、坂本龍馬(さかもとりょうま)を介して土佐藩の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)から上がってきた大政奉還(たいせいほうかん)案を実行します。

 

大政奉還とは天皇より委任された日本の統治権を天皇に返す事です。こうして、政権を返してしまえば、すでに政権は幕府にはないのですから、薩長が幕府を倒す大義名分は立たなくなるのです。慶喜の計画は自暴自棄ではなく、西郷や大久保の想像の上を行っていました。つまり、政権を返しても建武の新政から500年以上政治から遠ざかった天皇に現実の政治を行うノウハウもスタッフもないので、返した所で持て余し、結局、慶喜に引き続き政治を行うように頼むだろうと計算していたのです。

 

そして、政権を返してもらった慶喜は徳川幕府のシステムを抜本的に改定し幕臣である西周(にしあまね)の提言を容れ天皇を元首とし、慶喜自身が大君に就任、行政権と司法権を公府(政府)が、立法権を各藩大名と藩士で構成される議政院が持つ新しい日本帝国のシステムを構想します。

 

 

 

慶喜は大君として公府を代表し上院の議長を兼ね、下院の解散権を持ちました。それは大統領に等しい権限であり、大政奉還で慶喜が最終的に狙ったのは新生日本国大統領の地位だったのです。

 

慶喜さんパネェっす!もちろん、こんな事が成就したら討幕どころか、薩摩も長州も、幕府時代の何十倍も強大になった日本国大君の慶喜に簡単にひねりつぶされる事になるでしょう。追い詰められた西郷と大久保は、なりふり構わない手段に出ます。

 

 

鳥羽伏見の戦いで敵前逃亡!

 

慶応三年12月9日、1868年1月3日、西郷や大久保の意向を受けて五藩の兵が突如、御所の九門を閉鎖、親幕派の公卿の立ち入りを禁止します。こうして反対派を排除して前日に赦免されたばかりの岩倉具視(いわくらともみ)が王政復古(おうせいふっこ)の大号令を宣言しました。

 

王政復古は簡単に言うと慶喜を政権から排除し、400万石も返還しろという命令です。もちろん、こんな無茶な要求を慶喜が飲むとは西郷も大久保も岩倉も思いません。ここで怒った慶喜が幕府軍を動かして、京都に攻めてきたら天皇の敵指定し一気に軍事力で攻め滅ぼそうというわけです。

 

この計略も慶喜は察知し、ひたすら大阪城でダンマリを決め込みます。御所を封鎖し、慶喜を強引に排除する薩摩と長州のやり方は諸藩の反発を招いていました。挑発に乗らずダンマリ通せば、薩長もいつまでも御所を封鎖するなど出来ません。そうすれば、最後の勝利は慶喜のものでした。

 

小御所会議でも、岩倉は慶喜ひいきの松平慶永の反対で慶喜の領地を半分しか返納させる事は出来ず、それも慶喜は武力を盾に返納に応じません。大阪城の慶喜は諸外国の大使を呼んで、依然外交権は幕府にある事を宣言し朝廷に対し王政復古の大号令の撤回を要求します。

 

ところが、慶喜の希望は江戸で打ち砕かれました。西郷は江戸で浪士を集め、わざと火付け強盗など乱暴狼藉を行い幕府軍がキレて攻撃してくるのを待っていたのです。我慢しきれなくなった幕府軍は、江戸の薩摩藩邸を攻撃して焼き払います。このニュースが大阪城に入ると大阪城の幕府兵が激怒、京都に出兵して薩長を武力で追い払うと息巻いて制御不能になりました。

 

こうして、幕府軍15000は慶喜の意に反して京都に進軍を始めます。(ばかもの!・・天皇に叛けば朝敵ぞ、これまでの努力を無にするか!)ですが目を血走らせている将兵は聞きません、慶喜は神輿として担がれ身動きは不可能になりました。

 

 

1868年1月27日、鳥羽と伏見で薩長軍と幕府軍は戦端を開きます。開戦の報が届いた時、西郷は歓喜しました、勝つ算段がついたと確信したのです。慶喜は天皇を擁している薩長軍に発砲してしまいました。それはどんな理由があれ、朝敵になった事を意味していました。

 

 

大阪城に戻った慶喜は、口先では兵士達に命は預けたと嘘を言い、会津藩主松平容保、桑名藩主、松平定敬を引き連れて闇夜を突いて、幕府軍艦、開陽で大阪城を脱走してしまいました。慶喜の敵前逃亡は、幕府軍の主力である会津藩と桑名藩の藩主を共に連れ去り幕府軍の戦争継続を不可能にする事を狙ったという説があります。真意が不明ですが、とにかくこの先、慶喜は一切抵抗しませんでした。日本という国で権力を握る上で天皇を奪われ朝敵となっては、もうどうにもならない事を彼は知っていたのです。

 

 

ひたすら謝罪恭順で命拾いする慶喜

 

江戸に戻った慶喜は唖然とする家臣に謹慎すると言い渡し、食い下がる抗戦派の小栗忠順を振り切り、上野寛永寺に入り恭順謝罪の姿勢を崩しません。そして、戦後処理を和平派の勝海舟(かつかいしゅう)に委ね、篤姫や和宮にも和睦の仲介を依頼し自身は何が起きても寛永寺を動きませんでした。

 

実は勝海舟も篤姫も和宮も慶喜に騙された人々で慶喜は大嫌いでしたが慶喜が徳川家の当主である以上、慶喜を守る事が徳川家を守る事であると一生懸命に運動1868年4月11日、勝海舟と西郷隆盛は会見、江戸総攻撃は中止されます。

 

しかし、上野寛永寺には、慶喜を護衛する名目で徹底抗戦を叫ぶ幕臣の一部が彰義隊(しょうぎたい)を組織して敗残兵や博徒などを吸収し4000名まで膨れ上がっていました。慶喜は彰義隊に担がれる事を恐れ、水戸に脱出します。この判断は的確で慶喜が去った後、武装解除を拒否する彰義隊と新政府軍の間で5月15日に上野戦争が勃発しますが、慶喜はいなかったので責任は追及されませんでした。7月戦後処理で徳川家は70万石に減封され所縁の地である駿府(静岡)に移されます。これに従い、慶喜は水戸から駿府の宝台院に遷り謹慎します。かくして、江戸幕府は崩壊しますが、慶喜は絶対に動かないで謝罪恭順する事で自分の命と徳川家を滅亡から救う事になりました。

 

晩年の慶喜

 

1869年9月、北海道で最後まで抗戦した榎本武揚(えのもとたけあき)が新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結、それに併せて慶喜の謹慎も解かれました。ですが、朝敵の汚名はそのままなので、慶喜は静岡に居住、政治とは距離を取り続け、手厚い隠居手当を元に写真、狩猟、囲碁、絵画、投網、謡曲のような趣味に没頭します。

 

これを見て、慶喜をボンクラ扱いする人もいますが、これこそが新政府の警戒心を解く最上の方法だと慶喜が考えていた可能性も多分にあると思います。

 

ストレスフリーな生活を送る慶喜は寿命が延び、維新の元勲達が次々に亡くなる中で次第に明治政府の警戒心も解け、1897年には大政奉還から30年ぶりに明治天皇への謁見が許され、朝敵の汚名は雪がれる事になります。慶喜は、まさか存命中に朝敵の汚名が晴れるとは思ってもみなかったので少なからず感激したようで、奔走してくれた勝海舟の自宅を訪ねて丁重に礼を述べ海舟も「生きていて良かった・・」とうれし涙をこぼしたそうです。

 

名誉が回復すると慶喜は住居を東京の小石川の高台に移し、1902年には維新の功績から公爵を授けられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興す事を認められます。同年には貴族院議員にも選ばれ、35年ぶりに政治に携わりますが、出過ぎた事もせず淡々と職務をこなし1910年には貴族院議員を辞め七男の徳川慶久に家督を譲りまた、趣味に没頭する日々に戻る事になります。そして、大正二年、1913年11月22日、慶喜は風邪をこじらせて急性肺炎を起こし77歳で死去しました。10か月しか将軍職にいなかった慶喜ですが歴代将軍で一番の長命を保ち大往生を遂げたのでした。

 

 

私人としての徳川慶喜

 

慶喜は1855年、16歳で正室となる一条美香と結婚しています。その後も、慶喜は正室以外に側室を増やし続け、一色須賀、新村信、中根幸、それに江戸の町火消し新門辰五郎の娘、芳を妾としていました。

 

大奥には嫌われた慶喜ですが、妻たちとの仲は良好であったようで、特に、新村信と中根幸は容姿がそっくりな上に仲も良く眠る時は慶喜を中心に川の字で眠っていたと伝えられます。慶喜は10男、11女を儲けた艶福家ですが、これらの子供達はすべて明治以降に中根幸と新村信が出産した子供でした。慶喜の子供達は、おおむね成人し、大名家や皇族と縁組していき徳川慶喜の血筋を日本の上流社会に広げていく事になります。慶喜の子孫には、曾孫にあたるフリーカメラマンの徳川慶朝がいて、徳川慶喜家に所蔵された写真を編集整理して出版したりしています。

 

 

徳川慶喜モンスト攻略法

 

モンハンでの徳川慶喜攻略の方法を紹介します。敵の属性は全て木属性なのでこちらは火属性で固めていく方法があります。グリーンリドラなどの火力が高い雑魚がいるので火属性で固めてこちらの被ダメージを減らしましょう。徳川慶喜は2ターンごとに雑魚を再生するので、雑魚を攻撃しつつ、慶喜にダメージを与えられるパーティーを選ぶ必要があります。

 

なので、一度の攻撃で複数の敵にダメージを与えられる友情のスキルを持ったアトス(進化)やウォッカ(神化)などを入れると攻略が楽になるでしょう。慶喜ステージのギミックは、重力バリア等のメジャーなものはなく出てくるのはワープと蘇生くらいなので、ギミックに対抗するアンチアビリティよりいかに雑魚を多く倒せるか、ボスにダメージを与えられるかを重視して下さい。また、徳川慶喜のスピードクリアは12ターンと短くボス戦前にssを溜めておかないとスピードクリア出来ません、なので、特に高火力でターンが長いメテオや号令系は最終戦で使えるように溜めておきましょう。

 

 

幕末ライターkawausoの独り言

 

NHK大河ドラマ西郷どんでは、西郷隆盛の宿敵となる徳川慶喜を解説しました。毀誉褒貶(きよほうへん)の多い人ではありますが、この人は善い意味で執着がないですね。将軍職とか日本の支配者とかは、死んでも守るべきと人の判断を狂わせますが、慶喜は「バカ言え、死んでまで守る必要があるものなどない」と常にクールな判断をし結果としては、比較的小さな内乱で政権を明治政府に渡す橋渡しをします。ちょうど西郷どんと正反対の性格をしており、この二人が対照的であった事は幕末日本の大きな救いになったと言えるでしょう。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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