今回お話ししたい武将は、文聘です。文聘は三国志の中でも中々の猛将の一人ですが、どうにもその知名度は他の武将に比べると低い傾向に思います。また後に触れますがその記述も三国志の中で多い方ではありません、寧ろ不明部分が多い武将の一人でしょう。
しかしその死因を見て、人物を見ていくとこれがどうにも興味深い!そこでこの機会にできるだけ文聘について、皆様に知ってほしい次第であります。どうぞよろしくお願いします!
この記事の目次
文聘とは一体誰か?
まず、文聘を良く知らない方々に軽くご紹介を。文聘は荊州の武将で、劉表の元で荊州北部の守備を任されていた人物です。
しかし劉表は曹操が攻めてきた劇的なタイミングで亡くなり、その後継者となった劉琮は降伏を選ぶことになりましたが、この時に「荊州を守れなかった処罰を待つ」と出頭せず。
後に曹操の元に参じますが、この際に曹操から出頭の遅くなった理由を問われ「荊州を守れなかったことが情けなく、謁見する顔がありませんでした」と答えたことでその忠義を曹操は賞賛、厚遇されることになります。
その後は曹操傘下として対呉戦線で大活躍することになるのですが、それはまた次に。
文聘、その生涯と業績 有名な「江夏の守護神」
荊州を平定した曹操は文聘を江夏太守に任命。その後、関羽を楽進と共に尋口で破り、更に荊城でも関羽の船を焼き払うなど、関羽相手に華々しい戦績を挙げて出世していきます。
そうして最も活躍舌と言えるのが226年、曹操死後であり、その後継者となった曹丕の死後、孫権が大軍を率いて江夏に攻め寄せた時のこと。曹叡に派遣された荀禹による後方の攪乱によって孫権軍は撤退、この隙を見逃さずに文聘は敵の殿部隊を猛攻により打ち破り続けました。
惜しくも呉の名将、朱然によって快進撃は阻まれるも、この防衛の功績により500戸の加増を受けて1900戸となります。正史においても「文聘は江夏を数十年守り続けていたので、江夏は守られ、また誰も侵攻することはなかった」と書かれるほどに、文聘は江夏の守護神として在り続けたのでした。
こちらもCHECK
-
文聘(ぶんぺい)のリアル三國無双!五虎大将軍の関羽を倒し呉王・孫権には空城の計を使っちゃう!
続きを見る
文聘の気になる死因とは?歴史的記録には残っている?
さてここで文聘の死因について少し触れていきましょう。文聘の歴史に記録された死因、つまり公式に記録された死因は……残念ながらありません。
文聘については死後に「壮侯と諡された」こと、そして243年に曹芳により曹操の廟庭に功臣20人を祭った際に、文聘も含まれた、この二点が記録されている内容であり、そこに彼がどのように死ぬに至ったかは記録されていないのです。
あくまで推測するなら、戦死したとなれば逆にしっかりと記録されるでしょうから、病死、もしくは老化による自然死、と考えるのが定番でしょうか。死因についてのダークな噂が囁かれることもなく、怪しい説が散見しないのも、それだけ文聘が元から曹操配下ではないものの、しっかりとした功績を上げていた武将だから、というのもあるかもしれませんね。
こちらもCHECK
-
【魏のキラーの名を冠した将軍】城を守らせたら誰にも負けない文聘ってどんな人?
続きを見る
三国志における文聘の役割と活躍、それが三国志演義になると……
三国志の中でどのように文聘が活躍したか、それは分かって頂けたかと思います。また三国志における文聘が魏にとって江夏を守備する重要な拠点を守り、守りを任せられる存在である重要な存在であるかも分かって頂けたかと思いますが……では、こんな文聘がどうにも現代における知名度が低めなのはどうしてか?その理由の多くは三国志演義にあると言えるでしょう。
正史三国志では魏に貢献し、また忠義も曹操に評価される文聘ですが、三国志演義になると同じく劉表配下の蔡瑁と結託して劉備を暗殺しようとする、曹操に降伏した際はその忠義を褒められるのは変わらないが、その後、劉備と長坂で再会すると不忠を咎められる。
赤壁では黄蓋に川に落とされる、周泰たちに敗走させられる……まあ後の戦いで曹丕を背負って救出するようなシーンも描かれますが、どちらかというと不忠であり、不義であり、あった見せ場も削られている人物と言えますね。どうしてここまで変わってしまったのか、そこで、とある武将と文聘を並べてみましょう。
こちらもCHECK
-
文聘は魏の水軍提督?関羽を破ったみごとな水軍指揮の手腕を紹介
続きを見る
文聘の人物像の変化……歴史の背景から考察すると……?
文聘と同郷であり、劉表陣営の武将であり、同じく曹操配下に迎えられた武将に、ご存知、蔡瑁がおります。
この蔡瑁、三国志演義では完全に悪役、劉備や劉表の長男である劉琦を暗殺しようとしたり、劉表没時には蔡夫人と図って遺言を捏造して劉琮を後継者にし、更には荀攸から「あんな利に群がる小悪党どうして優遇するんです?」と曹操に言われ、何なら曹操も「いずれ処分するから大丈夫!」とあっさり殺されるろくでもない役回りです。
実際の蔡瑁は曹操の旧知だったことから厚遇されるも、その晩年は分からず、また曹丕から「あいつは郭図と同じ(意訳)」と言われていることから、代替わりした後は日の目を見なかったのだろうな……と予想できますが。この蔡瑁とどのような経緯であれ曹操にその忠義を評価されて活躍もした文聘、実は同郷のみならず没年が不明なことも同じです。このため、蔡瑁と文聘は「同じような存在」として描かれてしまったのではないかと思います。
もしくは三国志演義では悪人として描かれる蔡瑁には更に悪人仲間として彼の従弟が出てきますし、劉表陣営を真っ黒に描くためにも、忠義と活躍を評価された文聘の存在は不必要だったのではないでしょうか。ともあれ悪く書かれたのも災いして、どうにも文聘の知名度が低くなってしまったのではないか……と考えます。
こちらもCHECK
-
魏ファン必見!曹操廟の功臣たち、二十五功臣はどうやって選ばれたのか?
続きを見る
文聘の忠義はどこに向いていたか、嘗ての劉表陣営を考える
ここで嘗ての劉表陣営について少し愚考してみます。正史において曹操に侵攻された際に、劉琮は「荊州を保全しようと配下に策を尋ね」ました。蔡瑁らはこれに進言し、曹操に降伏することになります。また、この際に「文聘に呼び掛けて行動を共にしようとした」とありますが、こちらには文聘は応じなかったとされています。この後、曹操に謁見して「荊州を守れなかった」と涙を流したことでその忠義を評価される訳ですが……さて、蔡瑁なんかは曹操と旧知だったために戦う選択肢を選ばなかったのは分かります。
しかしもしかしたら?もしかしたら劉琮はこの時点では、曹操と戦うつもりであったのではないでしょうか?ですが蔡瑁らはその意見には従ってくれない……このために文聘と行動共にしようとしたのでは?
そうなると、文聘からすれば状況は複雑でしょう。現在の主君は戦うとしている、荊州は守りたい、しかしその意見に従う者はほぼいない……劉琮は蔡瑁の親類ということもあり、降伏した方がその命は守られることでしょう、実際に降伏後は厚遇されたと言います。ならば文聘が曹操との謁見を遅らせたのは、劉琮は「蔡瑁の陣営」と自分から遠ざけることで、主を守ろうとしたのでは……!?と言うのは、考えすぎでしょうか?
こちらもCHECK
-
荊州はどれだけ重要な土地だったの?関羽の死から始まる蜀の崩壊を考察
続きを見る
果たして曹操は、何の疑いもなく文聘の忠義を信頼したのか
さて、文聘が曹操と謁見した時のことを再び話しましょう。曹操は文聘の忠義を高く評価しました。文聘を字で呼びかけ親しみの情を示して厚遇しました。しかしこの後、曹操は文聘に兵を授けています。「それは文聘を信頼したからでは」と思われるかもしれませんが、これにより「曹純と共に長坂で劉備を追撃させ」ているのです。劉備陣営には劉琦が落ち延びています、劉琮同じく、劉表を父とする嘗ての文聘の主の一人だった存在です。
曹操にとってこれは「文聘を信頼して任せた」のではなく、「踏み絵」だったのでは?そうであったと仮定するなら、文聘は何をもって劉備を追撃したのでしょうか。彼の死因は、どうして記録されるまでに至らなかったのでしょうか。
最後に蛇足となりますが、文聘が生涯にわたって守り抜いたであろう江夏の地。この江夏太守には、劉琦が就いていました。もしかしたら主を変えて、国を変えて尚、文聘は忠義を全うした一人だったのかもしれませんね。
こちらもCHECK
-
三国志の水軍代表格・江東の水軍、荊州の水軍はどんな評価をされていたの?
続きを見る
三国志ライター センのひとりごと
文聘、生没年から死因、更にはその劉表に仕えていた時代が、かなり謎の人物でもあります。最も語られるのが曹操に謁見した際の忠義、そうして江夏の守備を全うしたこと、このことが大きく評価をされています。文聘と言えば魏の武将の一人……もちろんそれはそうなのですが、もしも彼が劉表に仕えていた時代が何かしらわかれば、もっと面白いだろうに。
何だかそう考えずにはいられない筆者でした。どぼーん。
参考:魏書文聘伝 劉表伝 蜀書先主伝 諸葛亮伝
こちらもCHECK
-
文聘(ぶんぺい)とはどんな人?魏延とも打ち合いをした魏の武将
続きを見る