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卑弥呼はなぜ死んだ?[邪馬台国の闇に迫る]

2024年12月24日


 

 

今回も、古代・邪馬台国(ヤマタイコク)に関する記事で書かせてもらいます。今回からは2回連続で女卑弥呼(ヒミコ)の死の謎について取り上げます。よろしくお付き合いください。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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卑弥呼はなぜ死んだの?

 

卑弥呼の死については、今も尚、謎に包まれているところでしょう。今回はその謎に迫っていきたいと思います。卑弥呼の死については、一般的には、老衰のためだったとも、あるいは敵対する狗奴国(クナコク)との抗争中に戦死したとも言われています。どちらも事実として証明された訳ではありません。そんな中、今回興味深い説を見つけましたのでご紹介します。

 

 

卑弥呼は殺害された?

 

これは過去に歴史テレビ番組などにも取り上げられている説でもありますが、別の観点も含めて書く予定ですのでお楽しみください。

 

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

それは、卑弥呼が殺害されたという説なのですが、戦死という形ではありません。戦場以外で殺害されたというのです。それを発表したのが作家の松本清張氏です。以前、清張説として、卑弥呼はアイドル的存在だったのではないかという説を取り上げましたが、引き続き、ミステリー作家らしい清張探偵による、「卑弥呼殺害!真犯人を追え!」というようなタイトルのサスペンスドラマにもなりそうな説が浮上してきましたので、ご紹介します。

 

今回は『清張 古代遊記 吉野ヶ里と邪馬台国』(NHK出版)を参考にしながら、その説の真相に迫っていきたいと思います。それでは、清張探偵は、なぜ他殺だと疑ったのでしょうか?

 

 

卑弥呼はなぜ他殺なのか?

魏志倭人伝の表紙 書類

 

『魏志倭人伝』(倭人伝)には、卑弥呼の死についてこう記述がります。

 

「卑弥呼以って死す」

 

「以って」(もってorよって)は原因や理由を表す表現です。しかし、「倭人伝」にはその理由が書いていないというのです。その直前の文には、

 

247年に、卑弥呼は、狗奴国(クナコク)との抗争中、使者を朝鮮半島北部にあった帯方郡(たいほうぐん)[帯方郡は、当時、魏の支配下にあった。]に派遣しました。使者が戦況を帯方郡の太守に伝えると、時の魏の皇帝「少帝(しょうてい)」から魏軍の旗印である「黃幢」(魏軍の旗)を与えられることになりました。さらに帯方郡から「張政(ちょうせい)」という人物を始め幾人かが共に邪馬台国へ使者として派遣されました。

 

難斗米(なしめ)

 

魏帝からの「詔書」と「黃幢(こうどう)」[魏の旗印]をもたらすためでした。邪馬台国内にて、張政たちの使節団が、邪馬台国側の大使代表格の難斗米(なしめ)に授けられ、檄を飛ばしました、という旨のことが書かれています。これから狗奴国とのさらに大きな衝突を予感させる文脈です。

 

しかし、その後、急に「卑弥呼以って死す」という文が出てくるのです。「何を(に)以って」なのかが分からないのです。理由を濁しているようにも見えます。濁しているということは、女王にとって不都合なことだったのでしょうか?つまり、敗けたのでしょうか?清張探偵は敗けたと見ています。

 

狗奴国は邪馬台国と対立

 

それでは、敵国の狗奴国の人間に秘密裏に暗殺されたのでしょうか?否、犯人は邪馬台国内の人間だというのです。というより、国内の人々と言ってよいでしょう。

 

 

卑弥呼を殺害した犯人は?

 

清張探偵によると、卑弥呼は、狗奴国との抗争の敗戦の責任を取らされ、倭国連合の首長たちによって処刑されたというのです。

 

その根拠というのが、正史『三国志』の「東夷伝」(とういでん)の中の「夫余伝」(ふよでん)の章に記述されているというのです。[「夫余伝」(ふよでん)とは、中国東北部に勢力を張っていた夫余族について書かれた章です。]その中に「麻余王(まよおう)」の死の記述があります。それによると、麻余王が、天候不調による不作を、王の不徳によるものとされ、処刑されたというのです。

 

古代の王は、天候不調による飢饉や敗戦などの責任を取らされ、処刑されたケースが多かったというのです。清張探偵は、これを有力な根拠としたようです。

 

さらに、卑弥呼の処刑は、事前に帯方郡の太守にも知らされており、魏王朝の代わりに群の権威で認めたと清張探偵は考察しています。帯方郡、つまりは後ろ盾の魏王朝に、処刑のお伺いを立て、それを認められたというのです。それに「よって(=以て)」、「卑弥呼死す」というのです。しかし、この処刑説には異論を唱える人もいます。それが、前回も取り上げた保坂俊三氏です。次回は保坂説の異論を取り上げつつ、より深く卑弥呼殺害説ついて探っていきたいと思います。お楽しみに。

 

参考

 

『清張 古代遊記 吉野ヶ里と邪馬台国』(NHK出版)

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コーノ・ヒロ

コーノ・ヒロ

歴史好きのライターです。 福祉関係の仕事をしつつ、物書きの仕事も色々としています。 小説や詩なども、ときどき書いています。 よろしくお願いします。 好きな歴史人物 墨子、孫子、達磨、千利休、良寛、正岡子規、 モーツァルト、ドストエフスキー など 何か一言 歴史は、不動の物でなく、 時代の潮流に流される物であると思っています。 それと共に、多くの物語が生まれ、楽しませてくれます。

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