これまでに本多忠勝について取り上げてきました。これまでの記事の内容は戦いぶりや逸話に関するものが中心でしたが、今回は本多忠勝の墓について取り上げます。この記事の前半でこれまでの記事から本多忠勝について振り返ります。後半では本多忠勝の墓の場所について紹介します。
本多忠勝とはどんな人?
本多忠勝は1548年に三河国で生まれました。初陣は1560年の桶狭間の戦いで、今川義元の家臣として戦っていました。今川義元が戦死すると徳川家康の家臣となります。家康の家臣の中で、井伊直政・榊原康政・酒井忠次とともに徳川四天王の一人となりました。
初陣以降の戦いで最前線にいるにもかかわらず、かすり傷を一切負わなかったという逸話も語り継がれています。
本多忠勝の戦いについて、姉川の戦いで、徳川軍と比べて圧倒的に有利な1万の朝倉軍を切り崩したり、難攻不落の高天神上の奪還することに成功したりしました。徳川勢の敗走が強調される三方ヶ原の戦いで、忠勝は武田軍を混乱させました。
1590年に徳川家康が関東地方に移ると、忠勝は家康とともに関東地方に移りました。大多喜城(現在の千葉県)を拠点とします。1600年の関ヶ原の戦いでは、家康の本陣にいました。工作活動で活躍し、西軍を東軍の味方にすることに成功し、この活躍が認められて伊勢国桑名藩の藩主になりました。
晩年は目の病気を患うようになり、1609年に家督を譲りました。翌年に1610年に病気により死亡しました。
本多忠勝の墓はどこにある?良玄寺へのアクセス方法
本多忠勝の墓は2箇所あります。まず、1箇所目は千葉県夷隅郡大多喜にある良玄寺です。1590年、徳川家康が関東地方に移ったことに伴い、本多忠勝も家臣として関東地方に移りました。
本多忠勝は関東地方に移ったとき上総国の大多喜城の城主になりました。大多喜城の城主になったとき、菩提寺として良玄寺を建立しました。良玄寺へのアクセスはいすみ鉄道が便利です。大多喜から歩いて行ける場所にあります。
関連記事:本多忠勝の身長はどれくらい?愛用の蜻蛉切や黒糸威胴丸具足から身長推測
三重県桑名市の浄土寺へのアクセス方法
次に2箇所目の墓について取り上げます。2箇所目は三重県桑名市の浄土寺です。浄土寺は1049年に建てられた浄土宗の寺です。関ヶ原の戦い後、忠勝は大多喜城から桑名藩に移り、桑名藩10万石の藩主となりました。桑名藩の藩主になったときに忠勝の菩提寺になりました。
地元では、浄土寺にまつわる幽霊飴の話が伝えられています。現在、毎年8月23・24日の地蔵盆で幽霊飴が売られています。桑名市の浄土寺へのアクセスは近鉄・JR桑名駅から徒歩14分、バスで徒歩4分です。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は本多忠勝の墓について取り上げました。この記事の前半では本多忠勝について、後半では本多忠勝の墓を紹介しました。この記事を通して本多忠勝の墓が2箇所あることが分かりました。本多忠勝は桑名藩で病気のため死亡しました。浄土寺で火葬されましたが、浄土寺と良玄寺の2箇所に分骨されています。いずれの寺院にも本多忠勝の墓であることを示す墓標などが建っているので分かりやすいかと思います。
本多忠勝について戦で傷を負わず勝ち続けてきましたが、本多忠勝が死亡する数日前の逸話が残されています。彫刻刀で自分の持ち物に名前を彫っていました。彫刻刀で彫っていたときに、本多忠勝は誤って手を切りました。
忠勝はこれまでの戦いでかすり傷すら負ったことがなく勝ち続けてきたのに、誤って手を切ったのを見てもう終わりだとつぶやきました。その数日後に死亡しました。
今後、戦国武将とお墓の関係については高野山に注目したいと思います。高野山にはかつて敵対関係だった武田信玄と上杉謙信、織田信長と明智光秀、信長と敵対した武将たちの墓があるといわれています。
今後、高野山にある戦国武将の墓について注目したいと思います。また、戦国武将が高野山に墓を建てた経緯や動機についても注目したいと思います。
▼こちらもどうぞ
【真田丸特集】徳川三傑・本多忠勝と蜀の五虎将軍・張飛を対比してみた