戦国時代のスイーツ男子・織田信長。
織田信長は甘いものが大好きで、キリスト教を伝来しに来た宣教師たちからお菓子をいっぱい貰います。織田信長は宣教師からお菓子をもらうと彼らからもらったお菓子を気に入り、大好物になってしまうのでした。
宣教師は織田信長へ挙げたお菓子の中に金平糖がありました。そこで今回紹介するのはこの金平糖と織田信長について紹介していきたいと思います。
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金平糖の語源とは?
織田信長と金平糖のお話を紹介する前に金平糖の語源は一体何から来ているのでしょうか。
金平糖の語源はポルトガルの言葉で「砂糖菓子」の「confeito(コンフェイト)」が訛りになまって「金平糖」として日本語になったそうです。では次に金平糖の作り方について紹介していきたいと思います。
日本で一軒だけの金平糖専門店
金平糖は江戸時代になると本格的に製造されるようになり、引き出物として送られるようになったそうです。しかし金平糖を作るのはめちゃくちゃ労力のかかるお菓子で、年々作るメーカーが少なくなってしまいます。
その原因は金平糖を作る後継が居なくなってしまうからです。金平糖を作る後継として入った職人は金平糖作りの厳しい修行に耐えられなくなって、いなくなってしまうのだそうです。
そのため現在金平糖を作っている専門店は京都にある「緑寿庵清水」というところだけです。この「緑寿庵清水」の金平糖は数々の賞を受賞しているすごいお菓子屋さんです。
そして「緑寿庵清水」が作る究極の金平糖と言われるのが、チョコレートの金平糖です。毎年予約が殺到し、予約キャンセル待ちが出るほどの人気商品となっています。ぜひ気になる方は予約して召し上がってみてはいかがでしょうか。
織田信長と金平糖
ここまで金平糖の語源と金平糖の現在の状況を紹介しました。ここからは織田信長と金平糖について紹介していきたいと思います。織田信長と金平糖が初めてであったのは1569年だそうです。
このとき織田信長は将軍・足利義昭のために二条城を建設している途中でしたが、キリスト教の宣教師・ルイス・フロイスが工事現場に現れて織田信長に謁見。
宣教師・ルイス・フロイスは織田信長と謁見する際、ロウソクと一緒にガラス瓶に入っていた金平糖を一緒に献上。織田信長はロウソクをみて驚いたそうです。
そしてスイーツ男子・織田信長は金平糖を食べると大喜びしていたとの記録が残っています。
スイーツ男子・織田信長は甘くてトゲトゲしている不思議なお菓子・金平糖を大変気に入ったと思うのですが、みなさまはどのように思いますか。
戦国史ライター黒田レンの独り言
スイーツ男子・織田信長はカステラやカルテラなどの甘いお菓子が大好きで自ら作って振舞っているのです。
スイーツ男子・織田信長が作ったお菓子は「ふりもみこがし」と言われるお菓子です。織田信長はこのお菓子を長年の盟友・徳川家康へ作ってあげたそうです。
いつごろ織田信長は手作りお菓子を徳川家康へ上げたのでしょうか。
それは武田家討伐を終えたあとの話です。
織田信長は武田家討伐が完了すると長年の盟友・徳川家康をもてなすために安土城へ招待します。この時、織田信長は自分で台所に入って炒ったお米や麦を臼で引いて粉にした後、お砂糖を混ぜて形を作り上げたものが「ふりもみこがし」です。
スイーツ男子・織田信長が台所に入って「ふりもみこがし」を徳川家康のために作っている様子を想像するとちょっとニタっと微笑んでしてしまうのはレンだけでしょうか。
そして徳川家康は織田信長から「ふりもみこがし」をもらったとき、どのような表情をして食べたのか。
レンの予想では気性の激しい織田信長の手作り「ふりもみこがし」を徳川家康がもらった時、びっくりする表情を見せないため、ムスッとしながら食べていたのではないのでしょうか。
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