三国時代を終わらせた晋。晋の初代皇帝は司馬昭の息子・司馬炎です。
彼は晋の初代皇帝として君臨すると色々な政策を実施していきますが、魏の礎を築いた武帝・曹操に匹敵するほどの功績を残せたのでしょうか。
晋の政策とは?
司馬昭の跡を継いだ司馬炎。彼はその後魏の皇帝から皇帝の位を禅譲され、晋と呼ばれる国を建国し、晋の初代皇帝として君臨。晋の初代皇帝となった司馬炎は揚州一帯を統治していた三国時代最後の国・呉を滅亡させて中華統一を実現させます。
中華統一をした司馬炎はどのような政策をたて、中華を統治していったのでしょうか。司馬炎は三つの政策を軸にして中華を統治していきます。
その三つの政策の一つ目は封建です。封建とは二種類に分かれ、一つ目は司馬家に名を連ねる一族を各地の王へと任命して、国政に参与させます。このようにすることで魏が滅亡した原因の一つ「皇族の弱体化」を防ぐ政策になっています。
二つ目の政策は「占田・課田制」をしていきます。そして三つ目は貴族の学校を作った事です。晋は儒教を国策としているため、官吏たちにも儒教をしっかりと理解してもらうのが必須となってきます。
そのため貴族達に儒教をしっかりと理解して、政治に参加してもらうための政策となっています。晋の皇帝・司馬炎が国家を統治するための政策として行った大きな事業はこのようになっています。
魏の武帝の事業とは?
司馬炎は死後「武帝」と呼ばれることになります。この「武帝」の称号は魏の基を作った曹操にも用いられています。ここでは曹操が残した政策を紹介していきましょう。
曹操が残した政策は色々とありますが、まず一つ目に紹介するのは「求賢令」です。「求賢令」とは「過去(殺人を犯したり、兄嫁と密通したり、賄賂を受け取っていたりなど)や家柄を一切考慮しないで、才能だけがあればいい」と言う布告。
この布告により多くの有能な人材が曹操の元を訪れることになります。また曹操は各地に駐屯している兵士達へ田畑を耕す農業政策をしています。他にも曹操は孫子に注訳を付けた「魏武註孫子」を執筆したり、郭芝から酒の酒造法「九醞春酒法」を習っていました。
このように曹操は国内の政治だけでなく、人材登用の画期的な政策を進めなど多岐にわたって実績を残しています。正史三国志の著者・陳寿は曹操を「時代を超えた英雄」と高評価を与えています。
司馬炎の政策実績は曹操に匹敵した!?
ここまで晋の司馬炎の政策と曹操の政策を紹介しました。司馬炎は曹操に匹敵するほどの政策実績を残せたとは思いません。曹操が行った政策は魏の国の礎となり、その後数十年もの間、魏の国家を安定させることに成功。
しかし司馬炎が行った政策は晋の帝国を安定へと導びけず、司馬炎が亡くなってから数十年後に晋の帝国も内乱によって滅亡してしまいます。このことを考慮すれば、司馬炎の政策は曹操が行った政策に匹敵できなかったと思います。
三国志ライター黒田レンの独り言
司馬炎が行った政策は魏の国家の滅亡原因を省みた政策をしていました。
そして司馬炎の政策に大きな失策は無かったと思います。ではどうして晋が建国数十年で滅亡してしまったのか。その原因は司馬炎が天下統一後、政治に興味を失くしてしまった事と司馬炎の跡を継いだ司馬衷がポンコツでどうしようもない人物だった事。
そして司馬炎の奥さん賈南風が政権を握って政治を乱してしまった事などが挙げられます。そのためもし司馬炎が呉を滅亡させた後もしっかりと国の礎を築くような政策を取り行っていけば、晋の国がもう少し長く王朝を存続できたのかなと思います。
■参考文献 正史三国志魏書など
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