「君は賢いね」と言われて悪い気がする人はいませんし、賢人として歴史に名を刻むことができたらこれほど栄誉あることはないでしょう。
しかし、その反対に「君はアホだね」と言われれば多くの人はムカッとして不機嫌になるでしょうし、アホとして歴史に名を刻まれそうなら全力でそれを回避したいものですよね。
実は、生前アホアホ言われ続けた挙句、歴史にもアホとして名を刻まれた人物が三国時代におりました。それは、呉の武将として有名な呂蒙です。
しかし、呂蒙はただのアホでは終わりませんでした。なんて言ったってあの武神・関羽を死に追いやった武将なのですから。今回は彼がアホから華麗に転身したという感動的ストーリーをご紹介します。
この記事の目次
アホで有名だった呂蒙
呂蒙は貧しい家に生まれました。そのためか、こんな貧乏暮しはうんざりだと常々思っていたようで、姉の夫で孫策に仕えていた鄧当の山越族討伐に勝手にくっついて回り、母にこっぴどく叱られます。
それでも呂蒙は決してめげることなく鄧当軍にくっついて歩きました。そんなことをしていた呂蒙は当然というべきか、鄧当の部下にからかわれてしまいます。このことに呂蒙はブチギレ、からかってきた鄧当の部下を殺害。
一度は逃亡するのですが、すぐに自首をします。このことを聞いた孫策に気に入られ呂蒙は晴れて呉の武将となることができたのでした。ところが、貧乏な家の出身で学が無い呂蒙は周囲の武将たちから浮きまくり。
「呉下の阿蒙(アホの蒙ちゃん)」とからかわれる毎日を送っていました。
孫権に諭されてアホからの脱却をはかる
「アホの呂蒙」呼ばわりされていた呂蒙ですが、「俺は学が無くたって、武将としての能力は高いんだ」と開き直っていました。事実、呂蒙は数々の功績を挙げ、孫権にも重用されていたので、アホのままでも問題は無いと考えていたのでしょう。
しかし、主君・孫権は学が無いことで周囲に軽んじられる呂蒙がちょっと不憫に思ったらしく、呂蒙に勉学に励むことをすすめます。
呂蒙は孫権にも「勉強しろ」と言われたことに少しムカついたらしく、最初は「忙しくて時間ないんで」と反発。しかし、孫権は次のように呂蒙を諭しました。
「お前の主君の私も忙しい中勉強できたのだ。お前にも絶対にできるはずだ。」これを聞いた呂蒙は勉強をすることを決意。みるみるうちに賢くなり、学者レベルの教養を身につけたのでした。
久々に呂蒙に会った魯粛ビックリ
そんな折、魯粛が呂蒙の元に訪れます。以前会ったときとは異なり、魯粛の小難しい話にもついてくる呂蒙。逆に関羽対策として魯粛は呂蒙から5つもの策を授けられます。このことに魯粛は大いに感嘆し、「呉下の阿蒙に非ず(もうアホの蒙ちゃんじゃない)!」と呂蒙を称賛したのでした。
呂蒙のドヤ発言が炸裂
魯粛の「もうアホの蒙ちゃんじゃない!」の言葉を受けた呂蒙。ちょっぴり得意になったのか、次のような名言を残しています。
「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし(日々鍛錬を積んでいる者というのは、3日も会わなければ見違えるほど変わっているものですよ)。」
うーん、呂蒙のドヤ顔が浮かんできますね!
ちなみにこの言葉は「男子三日会わざれば刮目して見よ」として未だに使われています。皆さんも機会があれば是非使ってみてくださいね。
でもなぜか進歩が無い人の代名詞のまま…
孫権の助言を受けて猛勉強し、あの魯粛にも「もうアホじゃない」と言わしめた呂蒙。これにてアホの汚名は返上できたかに思われましたが、どうやら未だに進歩の無い人のことを「呉下の阿蒙」と呼ぶそうです…。せっかくアホじゃなくなったと思ったのに、まだアホの代名詞のままだなんて、呂蒙がちょっとかわいそうですね。
三国志ライターchopsticksの独り言
呂蒙は貧乏だったために学がありませんでしたが、地頭はとても良い人物だったのでしょう。だからこそ、たくさんの功績を残すことができたのでしょうし、孫権から直々に勉強の大切さを説かれたのでしょう。
実際、呂蒙は勉強をしたことによって鬼に金棒状態にレベルアップしています。もしあなたが「地頭が良いね」とよく言われるのであれば、今からでも勉強してみてはいかがでしょうか?
もしかしたら呂蒙並みに化けられるかもしれませんよ。
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