乱世の奸雄曹操は、笑い上戸である一方で抜け目のない狡猾な一面があり、特に戦争に強かった事が知られています。しかし、そんな曹操、時々、チョンボをしでかす事がありました。今回は、十万戸以上の民衆を一瞬で失った曹操の愚策を紹介しましょう。
孫権の劫略を怖れて・・
赤壁の戦いで呉に敗れてより、長江の周辺は孫権の侵入を警戒しないといけない場所になりました。特に、痛手が大きいのは、そこに住む住民を呉に持っていかれる事です。三国志の時代は人口が激減しており、労働力の確保が急務でした。
魏と呉の間ばかりではなく、諸葛亮も姜維も夏侯淵も、僻地から住民を強制移動させて労働力を増やすという事をやっています。そこで、曹操も、孫権に奪われる前にと、長江一帯の住民をより内陸に遷そうと考えたのです。
蔣済が猛反対する
実は、曹操にはかつての成功例が記憶にありました。それは、西暦200年の白馬・延津の戦いの時に、土地の住民を戦火から免れさせる為に、自分の領地に移動させて成功していたのです。しかし、不安も少々あったので、別駕の蔣済を呼んで聞いてみました。すると蔣済は、
「官渡の戦いの頃は、我が軍は弱く袁紹は強かったので、白馬・延津の民を移さないと、きっと失ったでしょう。ですが今は違います、我が軍は北は柳城を落とし南では長江、漢水に面し西では荊州の劉琮と背中を合わせています。威徳は天下を震わしているのに、どうして民を移す必要がありましょうそもそも、民は土地に愛着を持ち、そこを離れるのを嫌がるものです。強行してしまえば、混乱が起こるでしょう」
曹操は、そんなもんかな?と思いましたが、結局、自身の経験を優先して長江周辺の住民を移す事にします。
嫌がる住民が十万戸以上長江を渡って逃げる
さあ、曹操が長江周辺の住民に移動するように命じると、蔣済が危惧したように大混乱が発生しました。
村人A「なんだって!せっかく、この土地になれてきたのに、
今さら内陸のよく分からん土地に移れというのか?」
村人B「お偉いさんは勝手なもんだ、土地を移って慣れるまでに
こっちがどんなに苦労するか分からねえんだ」
村人C「どうせなら、長江を渡って呉に行っちまおうぜ
あっちの方が土地の質も近いに違いねえ」
内陸のよく知らない土地に移動させられる不安が先に立った住民は廬江、九江、蘄春、広陵の広範囲にわたり、大挙して長江を越えて呉の住民になってしまったのです。それにより江西はがらんどうになってしまい、合肥城の南には、ただ、皖城だけがあるという有様になりました。これには曹操も唖然としたでしょうが、逃げてしまう住民の津波のような流れを押しとどめる事など誰にも出来ません。
後に曹操は蔣済が鄴にやってきた時に笑っていうには
「いやー、孫権の略奪を回避させるつもりで、民を移そうとしたんだが駆り立てて、ことごとく長江を渡らせてしまったよ、参ったね」
なんだか笑って誤魔化している感じですが、これは、曹操の大失敗として魏志、蔣済伝に記録されています。この住民大移動があった時期ですが、第一次合肥の戦いに曹操が勝利したそれ位の時期であったそうです。
三国志ライターkawausoの独り言
曹操は決して暗愚な人ではありませんし、実行に一抹の不安があったからこそ蔣済を呼び出してアドバイスを求めたのでしょう。ところが、官渡の戦いにおいての成功体験が完全に邪魔をしてしまいあの時と今では事情が違うという現実を把握できませんでした。曹操のような狡猾で現実主義の人物でも、過去の成功体験に捉われるとこのような大チョンボを侵してしまうのです。私達も過去の成功体験に捉われて、リサーチ不足を侵しているそんな事はありませんかね?
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