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諸葛亮の木牛流馬、実は[ガラクタ]だった?

2024年5月10日


 

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木牛

 

戦争において輸送は重要問題です。輸送において、特に食糧は必要不可欠です。三国志では、諸葛孔明(しょかつこうめい)は食糧不足と輸送問題で何回も戦いに敗れたことがありました。食糧の輸送問題に悩んでいた諸葛孔明はどのようにして解決を試みたのでしょうか。今回は輸送問題の解決手段とその成果について取り上げます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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司馬懿と孔明

 

 

諸葛孔明は劉備(りゅうび)の死後、南蛮征伐(なんばんせいばつ)を行うことで後方の敵を無くそうとします。同時に魏と戦うために自国の国力を増強し始めます。国力の増強が順調に進むと、孔明は何度も魏を攻めますが、その度に退却を繰り返していました。孔明は退却せざる得ない原因を考えました。退却の原因として兵糧を輸送する方法に問題があると結論づけました。兵糧の輸送問題を解決するために考察しました。

 

 

 

輸送力アップを考えた切っ掛け

兵糧を木牛で運ぶ蜀兵士

 

第二次北伐戦では郝昭(かくしょう)は数千の兵で陳倉城(ちんそうじょう)を防衛していました。孔明は陳倉城に籠城している兵の数が少ないこと判断して総攻撃を仕掛けましたが、この籠城戦に負けました。

 

空腹の三国志の兵士(兵糧)

 

孔明は城攻めに失敗しました。失敗した要因として食糧不足を挙げました。孔明は、食糧を輸送する際、どのようにしてより多くの食糧を輸送できるのか考えました。輸送力アップのために、孔明は輸送する手段として木牛・流馬を発明することを考えました。

 

発明!木牛流馬

四輪車に乗る孔明

 

諸葛孔明は食糧を効率よく輸送するために木牛(もくぎゅう)流馬(りゅうば)を発明しましたが、木牛・流馬とはどのようなものでしょうか。史実によれば、木牛とは長柄をつけた四輪の車、流馬とは一輪車とそれぞれ書かれています。どのようにして使われたのか気になると思いますが、詳細な記録は残されていません。木牛と流馬はともに部品であることから、これらの部品を組み合わせることで使用したと考えられます。組み立てると、牛馬のような機械式の手押し車かリアカーのようなものと考えられます。

 

 

実は木牛流馬はポンコツ?

孔明

 

木牛・流馬で輸送効率は改善したのでしょうか。初めて木牛・流馬が使用されたのは第四次北伐戦の祁山(ぎざん)の戦いです。この戦いで孔明は勝利しましたが、食糧不足により退却せざるを得ない状態になったことから輸送力の改善につながったとは言えません。

 

孔明のテントがある野外のシーン

 

第五次北伐戦である五丈原の戦いでは木牛・流馬を使いませんでした。代わりに、孔明は兵士に五丈原で屯田をするように命令しました。屯田とは平時の時に農業に専念させ、有事のときに軍隊に従事させることを言います。

 

 

 

使用されなくなった木牛流馬?

 兵士

 

今回は諸葛孔明が開発した木牛・流馬について取り上げました。史料からパーツを組み立てて使うという記録が残されているだけです。イラストなど詳細なものはありませんが、リアカーのようなものが考えられます。

 

兵糧を運ぶ兵士

 

当時、木牛・流馬は画期的で、初めて祁山の戦いで使われました。実際に、この戦いでほとんど使われることなく孔明側の勝利に終わりました。五丈原の戦いでは一切使われませんでした。諸葛孔明はこの戦いで病死しましたが、三国志で木牛・流馬は使われることなく姿を消しました。その原因として、輸送日数がかかることが挙げられます。

 

五丈原の戦いを例に考えます。木牛・流馬は一日8kmしか進めないため、片道200kmある五丈原まで25日かかります。輸送に片道25日かかるならば、敵地で兵に屯田をさせたほうが効率的だと考えたのかもしれません。最後に、木牛・流馬は、孔明の死後戦いの輸送手段で使われませんでした。戦争で使われなくなった木牛・流馬はどのようにして使われたのか気になります。農民が木牛・流馬を(すき)として使っていれば、孔明は発明家と言えるのかもしれません。

 

 

kawa註

本文では木牛流馬は五丈原の戦いでは用いられなかったと書かれていますが

正史三国志では、234年の五丈原の戦いでは流馬を使用して食糧を運搬したと

諸葛亮伝にはあります。

十二年(234年)春、亮悉大衆由斜谷出、

以流馬運、據(寄る)武功五丈原、與司馬宣司馬懿)對於渭南

ですので、木牛は不明ですが流馬は使用されたと言えるでしょう。

 

※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。

 

元記事:木牛流馬って何?孔明の発明で輸送問題が解消し北伐で大活躍?

 

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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