『三国志』の英雄といえば、その筆頭に名を挙げられるのは関羽なのではないでしょうか。
桃園で劉備・張飛と義兄弟の契りを交わし、戦いでは鬼神のような活躍を見せ、曹操から熱いラブコールを受けても靡かず、それでも曹操への恩義には報い、主君・劉備の安否がわかるや否や、5つの関所を突破して駆けつける…。まさに武人の鑑とも言うべき関羽。そんな彼の雄姿には男であれども惚れ惚れしてしまいますよね。
実は、歴史に名を残した幕末の志士・近藤勇も関羽に思いを馳せた『三国志』愛読者の一人だったのです。
この記事の目次
多摩の百姓の子
平和な江戸時代も黒船から一発撃たれた砲弾の音で終わりを迎えてしまいます。目まぐるしい幕末の混乱期の訪れです。尊王攘夷が叫ばれ、徳川幕府を倒そうという機運が高まり始めた頃、それでも幕府を守ろうと奮戦する者たちがありました。
それこそが、新選組です。新選組は近藤勇を筆頭に、攘夷志士の取り締まりに奔走します。ところが、天皇を祭り上げた新政府軍は天皇から討幕の勅命を受けて徳川幕府にピリオドを打たんと進撃。
国がこれ以上混乱してしまうことを恐れた徳川慶喜は大政奉還を行い、政権を天皇に返したのでした。
しかし、この幕府の判断をそれまで幕府に仕えてきた武士たちは痛烈に批判。その声を上げる者の中には近藤勇の姿もありました。最期までがむしゃらに悪あがきをして見せた近藤勇も、ついには新政府軍に捕らえられてしまいます。当時、武士は切腹することで自ら命を絶ったものですが、近藤勇にはそれが許されませんでした。なぜなら彼は、多摩の百姓の子でしたから。
武士よりも、武士らしく
近藤勇は多摩の百姓の子でしたが、勉強熱心な彼の実父は幼い近藤に『三国志』や『水滸伝』をよく読み聞かせていたと言います。そういうわけで、物心つく前から大の武人好きになっていた近藤勇。そんな近藤のお気に入りの武将は『三国志』の関羽でした。
関羽のストイックな生き方には、幼い心をも惹きつける魅力があったのですね。関羽に憧れていた彼は、武芸にも励みます。百姓でありながら自宅に道場を構えていた父の下、天然理心流という剣術を学び、15歳で試衛館に入門。メキメキと力をつける近藤の才を見抜いた近藤周助の計らいで、近藤勇は周助の実家の養子になり、天然理心流宗家の後継ぎとなったのでした。
その後、近藤勇に転機が訪れます。なんと、徳川家茂が京都に上るということで、その護衛を司る浪士組の募集が行われたのです。関羽が劉備を主君としたように、自分も主君を得るチャンスが訪れたと胸を躍らせた近藤勇。浪士組は京都で解散しましたが、近藤勇は何とかそのまま幕府に仕える道はないかと模索します。幸い、会津藩主・松平容保の目に留まり、壬生浪士組として活躍する機会を与えられました。
内輪もめを経て荒くれ浪士たちのトップに立った近藤勇は組織の名前を新選組と改めます。その後、幕府に仇なす攘夷志士の根城・池田屋をつきとめて襲撃。これにより新選組・近藤勇は歴史の表舞台に颯爽と踊り出たのでした。
皮肉な最期
新選組といえばダンダラ模様をあしらった浅葱色の羽織。この浅葱色というのは、武士が切腹する際に身につける裃の色。近藤勇は常に死を意識し、その死のときも武士らしくありたいと願って浅葱色を選んだのでしょう。ところが、近藤勇が武士らしく切腹をすることは許されませんでした。
近藤勇は板橋刑場で斬首に処せられ、その首を京都の三条河原でさらされてしまいます。最期まで武士らしくありたかった近藤勇にこの処刑方法をとったのは何とも無慈悲なことでしょう。しかし、当の本人は斬首のその瞬間、別のことを考えていたかもしれません。
それは、幼い頃より憧れていた関羽の最期です。関羽は呂蒙に捕らえられた後、見苦しい命乞いなど一切せずにその首を落とされます。主君への忠誠に生きた関羽。果たして、自分の生き方はどうだったか。幕府に対する忠誠に生きることはできただろうか?自らの人生が最期の時まで関羽の人生に重なることに気づいたとき、もしかしたら近藤はその皮肉に口元を緩めたかもしれません。
※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。
▼こちらもどうぞ