諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)は、西暦227年から234年にかけて、五度に渡る北伐の軍を興し防御する魏との激闘を繰り広げました。しかしながら、孔明がどのような軍団を率いて、戦いを続けたかについては、まだ、ビジュアルとしては、出てきていないようにkawausoは思います。そこで、今回孔明が率いた蜀最強の北伐軍をミエル化致します。
この記事の目次
孔明さんの虎の子組織をビジュアル化
こちらが、諸葛亮の組織した北伐軍の全容です。孔明の北伐軍は、8~12万程度と見られ、王師の軍に相応しく周制に倣い前後・中・左右の五軍で部隊を組織し、各軍の規模は二〇〇〇〇人前後です。ただ、孔明の斬新さは、オーソドックスな五軍に加えて、前督部と督後部をそれぞれ配置している事です。
これは山だらけの秦嶺山脈を越えるには適した配置で五軍の前後を、魏延(ぎえん)や高翔(こうしょう)、呉班(ごはん)のような精強な将軍が率いる前後督部で挟んで策敵効果と奇襲のリスクを回避しているわけです。
前督部は、元々魏延の私兵だった可能性
前督部は、別働隊として自由だっただけはあり、魏延は第一次北伐でも、単独で長安を落とすと進言して孔明に却下された事もあります。どうも前督部は、魏延の子飼いの軍勢で、自由自在に動かす事については、相当な自信があったようです。
孔明が五丈原で死んだ後に、魏延が楊儀(ようぎ)を討とうとした軍団も、、或いは前督部だったのかも知れませんが、この時には分解しているので何年かの歳月の中で、私兵だったものが、蜀軍として変質していったという事かも知れません。
姜維が鍛えた別働隊 虎歩
それ以外にも、北伐軍には、5~6000の精鋭部隊が配置されています。その中の虎歩(中虎歩兵)の部隊は姜維(きょうい)が直接鍛え上げた歩兵の精鋭で、隊を率いる部隊長を虎歩監(こふかん)と言い、234年の五丈原の戦いでは、孟琰(もうえん)が虎歩を率いて橋頭保の維持に活躍しました。
縻竺の孫が率いた騎兵 虎騎
虎騎は騎兵の精鋭で部隊長は虎騎監、こちらは、縻竺(びじく)の孫縻照(びしょう)が率いていました。こちらの精鋭以外にも、練度の高い弩の攻撃と赤い鎧で恐れられた赤甲兵や異民族、青羌10000戸から編成された無当と呼ばれた特殊部隊もいます。無当監は、あの王平(おうへい)で、231年の祁山の戦いでは、無当を率いて南の陣地を堅く守って、張郃(ちょうこう)を撃退しています。
北伐軍内の組織
それぞれの軍には、軍師、監軍、護軍、典軍というポストがあり、司令官や副司令官、監察官の役割を果たすほかに、任意で参軍が、設置される事もありました。参軍には、閻晏(えんあん)、爨習(さんしゅう)杜義(とぎ)、杜祺(とき)、盛勃(せいぼつ)という名前があるのですが、こちらは、孔明に直属しているポストで、参軍を置くときには、より強力に孔明の指揮が部隊の動きに影響を与えたと考えられます。
忘れちゃいけない補給担当 丞相府の長史
このような北伐軍に補給を行っていたのは、孔明の丞相府スタッフでした。文官が、緻密に計算を立てて、複雑な兵站の管理をやっていたんですね。責任者は長史、首相補佐官であり、ここの名前には、あの楊儀が見えます。なるほど、楊儀は生粋の文官肌なんですね。そりゃあ、魏延が切れて刀を突きつけたら、泣いてしまうでしょう。性格が合うわきゃありませんよ。
楊儀は鼻持ちならない自惚れ屋でしたが、補給という面倒な事務仕事を、きっちりこなしたので、孔明としては、いかに魏延と揉めても、首には出来なかったのでしょうね。
三国志ライターkawausoの独り言
以上、謎に包まれた孔明の北伐軍について、ミエル化してみました。部隊編成をミエル化するだけでも、人間関係が見えてきたりしますから、面白いものですね。こちらで使用したデータは篠田耕一著、三国志軍事ガイドに、おおむね依拠していますが、部分部分には、kawausoの解釈が、入っていまーーす。
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