125話:何で孔明や姜維の北伐は街亭や祁山にこだわったの?

2016年4月18日


 

オマケ

 

三国志の北伐の物語を読んでいると、孔明(こうめい)にしろ、

姜維(きょうい)にしろ、祁山や街亭というポイントに、

やたらに、こだわっているように見えます。

しかし、いずれの地点も、別に肥沃な土地でもないし大都市でもありません。

では、どうして、彼等はこだわったのでしょうか?

そこには、平地に慣れている日本人には想像できない、

漢中(かんちゅう)から長安に抜ける土地の険しさがあったのです。

 

前回記事:124話:曹休、憤死!!石亭の戦いと孫権の即位

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



山脈の間に道があるという益州周辺の状況

祁山、街亭01

 

現在の中国の地図を開いてみますと、大陸の東側と西側で、

かなり、道路の密度が違うという事に気が付きます。

東側は平地で開けていて、道路も緊密に走っていますが、

目線を西、長安から西に向けてみると状況は一変します。

 

そこには、山脈の淵をなぞるような形で大きな道路が、

延びているだけで、東側のような網の目の道路網とは

比較にならない寂しい単線の道路があるだけです。

 

普通なら画像をアップすればするだけ、

細かい道路が放射状に延びるというのが普通ですが、

そういう事もないのです。

 

想像を絶する険しさだった蜀の桟道

祁山、街亭02

 

 

かつて、秦の帝都だった咸陽(かんよう)より西は、

秦嶺山脈という2000m級の山脈がそびえる土地で、

山岳民族の住む所でした。

 

ただ、秦嶺山脈を突き抜けた先に肥沃な巴蜀の盆地があり、

そこを開く為に、秦は険しい断崖を削り、杭を打ち込み、

その上に板を渡す形で蜀の桟道という細い通路を造ったのです。

 

劉邦

 

その苛酷さは、想像を絶し、項羽(こうう)によって漢中王に任じられた、

劉邦(りゅうほう)が、この巴蜀の桟道を通りましたが、

100名から2~3人は転落死するという険しさでした。

 

それでも、その桟道を通るのが一番安全な蜀への道だったのです。

この一点だけでも、この辺りで戦闘が起きる事の困難を物語ります。

 

祁山にしろ、街亭にしろ、そこしか通れなかった。

孔明

 

現在でも、山脈を削った何本かの道路しかない秦嶺山脈から蜀へ至る道です。

1800年前は、それ以上にルートの選択肢が無かったでしょう。

例えば祁山は、天水のような北方異民族と連携する為に不可欠な地点なので

取られないように魏は要塞化してしまいました。

 

本来なら通過したくないのですが、必ず通らないといけないので、

一々、戦争の度に、孔明も姜維も祁山を落すしかなかったのです。

 

逆に、こういうポイントを例えば、夜陰に乗じて通過するように
飛ばしてしまうと挟み撃ちに遭うリスクが高まってしまいますし、

挟まれても逃げ道もありません。

非常に窮屈で地味な戦いが北伐という闘いだったのだと思います。

 

孔明の目的からも祁山は絶対に必要だった

祁山、街亭04 孔明

 

また、孔明の北伐には、涼州を分断して魏から切り離し

蜀の陣営に引き込むという戦略が常にありました。

涼州は人口42万人、10万戸と大した人口ではありませんが、

戸籍には表れない、騎馬に熟達した羌族のような異民族兵が多く

実際に馬超が、それらをまとめて曹操を追い詰めた

潼関(どうかん)の戦いのようなケースもあります。

 

馬超の父の馬騰(ばとう)も、李傕(りかく)と恩賞で揉めて、

騎兵を率いて、長安を攻めた事もありますから、

涼州の騎兵を手にするのは、一州を手にする以上の価値があると

孔明は考えたのだろうと推測します。

 

まあ、いずれにしても、涼州を魏から奪い取るには、街亭、

そして祁山を手中に収めて、堅く守り、魏の奪還軍をはねかえす

必要があったのです。

 

関連記事:孔明の北伐はノープランだった!?北伐の意図は何だったの?

関連記事:孔明の北伐の目標はどこだったの?

関連記事:孔明とは違うのだよ!天才姜維の斜め上北伐とは?両者の徹底比較

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-全訳三国志演義
-, , , , ,