明治時代の高官達は諸外国に負けない近代軍隊を創設するため、
ドイツから近代軍学を学ぼうと一人の教官を呼びます。
その名をクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル
といいます(長いのでメッケルと略します)。
彼はドイツ陸軍の秀才で、日本に来て日本陸軍の近代化に成功します。
メッケルは日本の歴史上に残る戦いが書いてある教科書を見ます。
この時日本陸軍の将校から関ヶ原の戦いを教科書で見せられ
「どっちが勝ったと思います」と質問されます。
彼は東西の布陣図を見て即座に「西軍が勝っているに決まっている」と述べたそうです。
実際の関ヶ原の戦いでは東軍率いる徳川家康が大勝利しているのですが、
どうして西軍率いる石田三成はメッケルの言葉通りに、勝つことができなかったのでしょうか。
今回は三成率いる西軍が敗北した理由について紹介したいと思います。
真田丸に関する記事一覧:真田丸全記事
関連記事:ここを押さえれば大丈夫!NHK大河ドラマ『真田丸』を100倍楽しむ方法!
この記事の目次
- 関ヶ原の西軍と東軍の兵力を比較
- メッケルが西軍の勝ちだと言った理由は:西軍の地形図と関ヶ原の地形から読み取った
- 関ヶ原の戦い一時間目:西軍の先鋒隊と東軍先鋒隊がぶつかる
- 関ヶ原の戦い1時間目:この時石田隊では・・・
- 関ヶ原の戦いが始まってから2時間目:戦況は東軍がちょっぴり優勢
- 関ヶ原の戦い2時間目:西軍の実働実数と東軍の実働実数
- 関ヶ原の戦い3時間目:三成松尾山と南宮山へ攻撃開始の狼煙を上げるも・・・
- 関ヶ原の戦い4時間目:小早川秀秋の裏切り
- 関ヶ原の戦い5時間目:大谷吉継の奮戦虚しく、西軍敗北
- 関ヶ原の戦いで西軍が敗北した原因その1:小早川軍の寝返り
- 関ヶ原の戦いで西軍が敗北した原因その2:吉川広家の暗躍
- 真田丸ライター黒田廉の独り言
関ヶ原の西軍と東軍の兵力を比較
まずは関ヶ原の戦いに導入された兵力を確認してみたいと思います。
石田三成率いる西軍は総大将である
毛利輝元(もうりてるもと)・豊臣秀頼(とよとみひでより)らは、
大阪に居たままですが、西軍の兵力は約80000万人ほどが集結しておりました。
対する徳川家康率いる東軍は、息子である徳川秀忠(とくがわひでただ)が、
真田昌幸(さなだまさゆき)や真田信繁がこもっている信州上田城攻略戦に手間取ったことから、
関ヶ原の戦いには参加しておりません。
その為徳川家康率いる東軍の実数は日本戦史によると
西軍とだいたい同じである85000人ほどでした。
東西率いる両軍はほとんど同じ兵数で戦う事になるのです。
メッケルが西軍の勝ちだと言った理由は:西軍の地形図と関ヶ原の地形から読み取った
メッケルは日本陸軍の将校から関ヶ原の戦いの布陣図を見せられます。
すると彼は西軍の勝利で終わったのであろうと即答します。
彼はなぜ西軍が勝ったと即断したのでしょうか。
それは西軍が布陣した場所に関係があります。
西軍の実質的総指揮官である石田三成は北国街道が通っている笹尾山に布陣。
この笹尾山を中心として東軍を包囲するような形で鶴翼の陣形をとっております。
また関ヶ原に高い場所である松尾山(まつおやま)や南宮山には西軍の諸将が布陣しておりました。
松尾山は東軍の側面を付くには格好の土地でこの場所には小早川秀秋が1万5000人ほどの
兵力で駐屯しておりました。
また徳川家康の本陣の後ろから攻撃することができる南宮山には、
毛利秀元(毛利元就の孫)が毛利家を支えている吉川広家と共に陣取っておりました。
メッケルはこの布陣を見て西軍が東軍を包囲するような陣形を取っていることから、
西軍が勝利したと断言したのです。
しかし実際の戦いはメッケルが言ったような戦況にはなりませんでした。
関ヶ原の戦い一時間目:西軍の先鋒隊と東軍先鋒隊がぶつかる
関ヶ原に両軍の布陣が完了すると徳川家康の四男である松平忠吉(まつだいらただよし)と
娘婿である井伊直政(いいなおまさ)が、
西軍の先鋒である宇喜多秀家(うきたひでいえ)へ率いる隊へ攻撃したことがきっかけで、
関ヶ原の戦いは開始されます。
しかし彼らは関ヶ原のホントの先鋒である福島正則(ふくしままさのり)を差し置いて、
宇喜多隊に攻撃を仕掛けたため、兵数をあまり率いていませんでした。
彼らは鉄砲で宇喜多隊へ攻撃を仕掛けてからすぐに退却して自陣へ戻ります。
その後宇喜多隊と福島隊の激しいぶつかり合いが始まり、
数で優っている宇喜多隊は福島隊を幾度か崩す戦功を上げており、
開幕当初の戦いでは西軍が東軍よりも優勢でした。
こうして関ヶ原の戦いは開幕することになります。
ついでにこの日の関ヶ原盆地の天気は朝からひどい濃霧が漂っておりました。
関ヶ原の戦い1時間目:この時石田隊では・・・
関ヶ原の中心部では宇喜多秀家(うきたひでいえ)隊と福島正則(ふくしままさのり)隊が
激しく戦っており、一進一退の攻防が続いておりました。
そして笹尾山では石田三成隊約7000人に対して
東軍の黒田隊・細川隊合わせて10000万人が、猛攻を仕掛けておりました。
彼らは三成隊の先鋒である島左近(しまさこん)隊へ攻撃を仕掛けますが、
左近率いる石田隊は中々突き崩す事ができませんでした。
その為数で優っている両隊は石田隊の先鋒陣地を攻略することができませんでした。
また三成もかさになって攻めかかってくる東軍諸将に対して、
受けの態勢しか取れず攻撃に回ることができませんでした。
関ヶ原の戦いが始まってから2時間目:戦況は東軍がちょっぴり優勢
関ヶ原の戦いが始まってから2時間ほどが経過します。
関ヶ原中央部で戦っていた宇喜多隊と福島隊の戦況は互角でしたが、
福島隊に西軍の諸大名が援軍として参加したことで、
ちょっぴり宇喜多隊が押され気味になってしまいます。
また石田隊は黒田隊と細川隊のほかに東軍の後方に位置していた東軍諸将が援軍として
攻撃に加わった事で攻撃が激しくなります。
また石田隊の先鋒隊であった島左近が黒田隊の鉄砲隊の攻撃によって重症を負います。
その為左近の隊を後ろに下げなくてはなりませんでした。
しかし三成隊は大砲による攻撃や蒲生郷舎(がもうさといえ)隊の攻撃に撃退されてしまいます。
その為石田隊も激戦を行いながらもなんとか戦線を維持しておりました。
関ヶ原の戦い2時間目:西軍の実働実数と東軍の実働実数
関ヶ原では東軍と西軍がいりみだって乱戦状態を続けておりましたが、
両軍の実働実数を比較してみたいと思います。
西軍は総兵力数は約80000万ほどが関ヶ原の大地に布陣しておりました。
しかし関ヶ原の戦いが始まると実際に稼働していた実数は先鋒である宇喜多秀家隊、
石田三成隊、小西行長(こにしゆきなが)隊、大谷吉継(おおたによしつぐ)隊などを合わせて、
3万5000人ほどしか活動していませんでした。
それに比べて東軍は徳川家康の本体30000万人ほどは桃配山から動いておりませんが、
それ以外の軍勢は西軍へ攻撃を仕掛けており、実働実数は40000万人以上。
こうして見ると西軍が不利になっている状況がお分かりになると思いますが、
西軍は東軍よりも高い場所に陣取っていたことが幸いして、東軍の波状攻撃を凌ぎます。
また東軍は実働人数が西軍よりも大いに関わらず、東軍を攻め崩す事ができませんでした。
関ヶ原の戦い3時間目:三成松尾山と南宮山へ攻撃開始の狼煙を上げるも・・・
関ヶ原の戦いもお昼頃になると両軍決め手がないまま戦いを続けていくことになります。
しかし西軍に大チャンスが訪れます。
家康が桃配山を降りて南宮山近くに布陣。
この報告を聞いた三成は南宮山にいる諸将に対して総攻撃の合図である狼煙を上げます。
しかしこの狼煙を見ても南宮山の諸将は一切動きませんでした。
この光景を見た三成はもう一度狼煙を上げるように側近に言い渡した後、
松尾山にいる小早川秀秋(こばやかわひであき)に会いに行きます。
三成は松尾山に到着するとすぐに秀秋に
「今。西軍は宇喜多隊や大谷隊が奮戦したかいあって、
東軍を圧倒しております。
今ここで秀秋様が東軍の側面を攻撃すればお味方大勝利間違えなしです。」と要請します。
しかし秀秋は三成の言うことを上の空で聞き、しっかりとした返答を出さないまま話し合いは
終わることになります。
三成はその後松尾山に戻ると隣に布陣している島津義弘(しまづよしひろ)の軍勢に使者を出し、
「お味方優勢です。攻撃に参加してくだされ」と要請を出します。
しかし島津は三成の要請に応じることなく、攻撃に参加しませんでした。
関ヶ原の戦い4時間目:小早川秀秋の裏切り
関ヶ原の戦いは一人の男の去就にかかってきます。
その男の名は小早川秀秋(こばやかわひであき)。
彼は石田三成の攻撃要請にしっかりとした答えを出さないまま、
東西の戦いを松尾山で見学しておりました。
松尾山からでは霧が晴れず東西の戦いの様子を見ることができませんでした。
その為どちらが優勢かしっかりと見極めてから東西どちらかへ味方しようと考えておりました。
そして霧が晴れ、眼下を望むと西軍のほうが有利であると判断します。
秀秋は西軍が有利であると判断し、松尾山を降りて東軍へ攻撃を仕掛けようとします。
この時松尾山に鉄砲が放たれます。
この鉄砲隊は秀秋が徳川家康に寝返りの約束をしたのに、
未だにグズグズして西軍に攻撃をかけない秀秋に対しての威嚇攻撃でした。
この鉄砲隊の攻撃に驚いた秀秋は徳川家康が怒っているのではないかと悟り、
西軍へ攻撃を仕掛けます。
関ヶ原の戦い5時間目:大谷吉継の奮戦虚しく、西軍敗北
小早川秀秋は東軍に寝返り、西軍へ攻撃を仕掛けます。
秀秋裏切りを予想していた大谷吉継は、
秀秋が裏切ったことを知ると小早川軍へ攻撃を仕掛けます。
吉継の軍勢は2500人しか居ないにも関わらず、小早川軍15000人へ突撃。
そして小早川軍を押し返す大奮戦を行います。
だがこの奮戦も長くは続かず、小早川軍の大軍の波状攻撃と吉継の軍勢に参加していた
小大名の裏切りによって大谷軍は壊滅。
そして東軍は小早川軍が大谷軍を壊滅させたことを知ると東軍のほとんどの軍勢が、
石田陣へ猛攻を開始します。
東軍のほとんどの軍勢を一隊で相手にできるわけがなく、石田陣も崩壊してしまいます。
こうして関ヶ原は東軍の大勝利で終わることになります。
関ヶ原の戦いで西軍が敗北した原因その1:小早川軍の寝返り
関ヶ原で西軍が敗北した最大の原因は二つあります。
一つは上記でもご紹介した小早川秀秋の寝返りです。
関ヶ原の戦いも中盤に差し掛かった頃に寝返った為、西軍は崩壊してしまいます。
もし関ヶ原の戦い1時間目で寝返っていれば、
ここまで大敗北することなく早々に西軍は退却したかもしれません。
関ヶ原の戦いで西軍が敗北した原因その2:吉川広家の暗躍
関ヶ原の戦いで西軍が敗北した二つ目の原因は南宮山にいた毛利本家の軍勢が、
関ヶ原の戦いに参加しなかったことです。
彼らが参加しなかった原因を作ったのは毛利家を長年支えてきた吉川広家が、
徳川家康へ内応していたためでした。
その内応の条件は毛利軍が関ヶ原の戦いに参加しないことでした。
彼が毛利家の当主である毛利輝元に相談せず、
毛利家を西軍の総大将に就任させた外交官である安国寺恵瓊(あんこくじえけい)にも
相談しないで無断で家康と内応の約束をしておりました。
その為毛利軍が南宮山から動かないため、
この山に布陣していた長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)らの軍勢は一回も戦闘に参加しないで、
関ヶ原で西軍に味方したと徳川家康から攻められて、領地を剥奪されてしまいます。
この毛利家のふたりの重臣である吉川家と小早川家が徳川家康に寝返った為、
西軍は敗北したと言えるのではないのでしょうか。
真田丸ライター黒田廉の独り言
真田丸ではこの関ヶ原の戦いはほとんど描写されることなく、
すっとばされて東軍勝利の報告だけが行われます。
真田家が参加していない戦いであるので、すっとばされてもしょうがないと思いますが、
このすっとばされた戦いは豊臣家の命運と
徳川家が天下統一の命運がかかっていた戦いであったのは間違えありません。
そして敗北した豊臣家は滅亡への道へ転がっていくことになるのです。
どのように滅亡へ至るのかは真田丸をご覧下さい
「今回の真田丸特集はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃあまたにゃ~」
真田丸に関する記事一覧:真田丸全記事
関連記事:いまさら聞けない真田丸って一体何なの?
関連記事:さよなら戦国BASARA!イケメン真田幸村の不細工伝説