凶悪犯罪が近代だけのモノと思ったら、大間違いです。すでに1800年前の三国志の時代にだって凶悪犯罪はありました。当時の人々は、いつ起きるか分らない犯罪を警戒し、それに備えて様々な防犯方法を考え出していたのです。今回は、三国志時代の犯罪防止法を紹介していきます。
この記事の目次
奏讞書に記された身勝手な凶悪犯罪
三国志の時代からは、400年程、遡りますが、奏讞書(そうげんしょ)という秦の裁判記録から、一つの凶悪犯罪の事例を見てみましょう。
紀元前241年の秦、秦王政の六年の事、一人の女の召使いが、雨の中、傘を差しながら歩いていると、突如背後から何者かに突き倒され地面に転んでしまいました。
女がハッとして気がつくと、背負ってきた1200銭の銭の束がありません。大声で「泥棒!」と叫ぶと、近くに住む齔(しん)という少女が飛び出してきて開口一番、
「大変、背中にナイフが刺さっているわ!」
女の背中に突き刺さったナイフは全長20センチもある大きなモノ、幸い急所は外れていて、召使いの女の命に別条はありませんでしたが、もう少し、ナイフの刺さる場所がズレれば死んでいたかも知れません。
この事件の犯人は、孔(こう)という不良少年で「遊び金欲しさにやった」と犯行を自供しています。動機も短絡的な思考も今の犯罪と大差ありませんね。
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数十万の人間が住む大都市では太鼓がサイレンの代わりだった。
三国志の時代でも、洛陽や長安のような大都市では人口は数十万を数え、富める人間もいれば、その日の寝床さえない貧しい人もいました。必然的に犯罪は激増し、特に砂塵が舞い飛ぶ、黄昏時に強盗殺人事件が、頻繁に起きていたと言われています。
漢書の張敞(ちょうしょう)伝によると、前漢の末期は社会が混乱して凶悪事件が多く、あまりにひっきりなしだったので張敞は一計を案じて賊の親玉を懐柔して更生させ犯罪を減らす事に成功したという記述があります。
※参考文献 漢書
犯罪が発生すると、当時の役人は、櫓に登り太鼓を叩いて、周囲に犯罪が発生した事を知らせていました。呑気に見える古代ですが、すでに大都市では現代のサイレンのように、犯罪の発生を知らせる太鼓が鳴り響いていたとは驚きです。
力の限り叫べ!大声を挙げて、太鼓を叩いて犯罪予防
また、これは「隋唐嘉話」という本にある話で唐の時代の事ですが、夜明け前と夕方には役人が太鼓を打ち鳴らし、大声を張り上げて、犯罪に注意するように呼びかけていたようです。
「知らないヤツには近づくな! 出歩く時は周囲を見よう!」
などと、交通標語のような事を叫んだかも知れません。これにより、これから犯罪に走ろうという人へ向けた抑止効果もあったのでしょう。しかし、朝と晩に大声を張り上げる苦肉の策を見ていると、当時の役人も犯罪には手を焼いていた様子が見えるようです。
武器を持って頬っかむりする事禁止!
漢の時代の法律には、武器を携帯し、頬っかむりで顔を隠す事を禁止するという法律がありました。それを破れば逮捕という事でしょうが、武器は分るとして頬っかむりもダメという事は、当時の犯罪者は、顔を頭巾で隠していたという事かも知れません。なんだか、サザエさんに出てくる古典的な泥棒みたいで妙に親近感が湧くスタイルですね。
洒落にならない、夜中に街を出歩くと死刑!!
三国志の時代には、外灯などありませんから、夜は真っ暗です。おまけに市街地もそれぞれの区画ごとに設置された門も閉じます。ですから、夜中に歩く人間は、人殺しか盗人と見なされ、問答無用で犯罪者扱いで殺されました。
曹操(そうそう)がまだ若く、洛陽北部の門で都尉をしていた頃、皇帝お気に入りの宦官、蹇碵(けんせき)の叔父が自分も偉くなったものと錯覚し我が物顔で夜中に城門を潜ろうとし曹操に逮捕されて罰として棒で叩かれ死んだ事があります。
この話だけ見ると、曹操厳しすぎと思いますが、実際には曹操は法律を順守しただけなのです。
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三国志ライターkawausoの独り言
いかがだったでしょうか?三国志の時代の防犯方法。太鼓を鳴らして犯罪を知らせる、夜間の外出を禁止するなどは、今でも通用しそうですが、頬かむり禁止などは時代がうかがえて現在からはコントのようです。
ただ夜中に門を出入りすると死刑になるのは洒落にならない位に厳しい決まりです。これなら、帰るのが遅くなったら、城門をくぐらず野宿した方がマシに思えますね。でも、そうなると盗賊に狙われそうですけど・・
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