豊臣秀吉が天下を取ることができた大きな要因は二人の軍師が居たからだと考えられます。
その二人の軍師とは竹中半兵衛と黒田孝高(くろだよしたか)でした。
このふたりの軍師は秀吉の「両兵衛」と言われ、
彼を支えて軍事・政治に対して進言を行ったことで、秀吉は天下を取ることができます。
今回は秀吉の天下を取ることに協力した両兵衛の内の独り黒田官兵衛孝高の前半生を
ご紹介していきたいと思います。
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官兵衛の誕生と初陣
官兵衛(孝高はあまり有名ではないため、官兵衛と記して行きます。)は
黒田職隆(くろだもとたか)の嫡男として誕生します。
彼は四人の兄弟と一緒にすくすくと成長していき、
黒田家の主君である小寺氏の当主から声がかかり小姓として仕えることになります。
そして彼の初陣は17歳で初めて戦場へ赴きます。
この時の敵は小寺氏に楯突いている近隣の豪族討伐が目的でした。
彼はこの豪族討伐戦で首級を挙げます。
その後も彼は豪族討伐で武功を挙げていくことになるのです。
官兵衛は歌が大好き
官兵衛は初陣を果たし武功を挙げて小寺氏に認めれることになるのですが、
彼は戦よりも和歌の方に関心がありもっぱら和歌を嗜んでおり、
学問はあまり好きではありませんでした。
そんな彼に学問の師匠である和尚が
「官兵衛。お前は学問をおろそかにして和歌ばかりに興味を示しているが、今は乱世である。
和歌を詠むことが悪いことではないが、
今は兵法書を読んで戦における駆け引きを学ぶべきであろう。」と怒られます。
官兵衛はこの和尚の注意を受けて、
和歌を嗜むことを止めて兵法書を読みあさっていくことになります。
青年期に兵法書を読みあさったことが後年の活躍につながることになります。
実務で秀逸な能力を示す
官兵衛は初陣を果たすと小寺家の実務を任されるようになります。
彼は小寺氏の居城である姫路城下に住む民衆達の統制を行い、
養子縁組や租税に関する管理などで能力を発揮していきます。
また播磨の近隣の大名である赤松氏との戦でも活躍し、
小寺家内部では彼の地位は着実に重きをなしていくことになります。
織田信長に従うべし
官兵衛が実務をこなして小寺家で重きをなしている頃、近畿地方を制圧して大勢力として
成長していた織田信長が宿敵である武田家を長篠の戦(ながしののたたかい)で撃破。
この戦いに勝利したことで織田家の勢力を阻むものがなくなってきます。
小寺家は播磨(はりま)を領有しておりましたが、
中国地方の巨大勢力である毛利氏が着実に勢力を拡大し、
官兵衛のいる播磨にも影響力を反映させてきます。
小寺氏は西に毛利・東に織田と大勢力の挟まれてしまいどちらに味方して家を保っていくのが
賢明なのか判断に迷ってしまいます。
そこで小寺氏は重臣達を集めて会議を開きます。
この会議に参加した官兵衛は小寺氏に「織田家の勢いは凄まじく、
毛利家を圧倒する日がいずれ参りましょう。ここは織田家に味方する方がいいと思います。」と
進言。
この官兵衛の意見に賛同した重臣達は小寺氏に同意を求め、
主君小寺氏も官兵衛の意見に従って織田家に味方することを決めます。
官兵衛の恐るべき時勢眼
当時の播磨の豪族達には自分たちが住んでいる土地や近隣の地方にしか、
目を向けておりませんでした。
そのため京や地方に目を届かせている者は皆無でした。
その中で官兵衛ただひとりは先を見据えると同時に、今一番勢いのある勢力をしっかりと見抜いた
その時勢眼は恐るべきものがあると思います。
こうして官兵衛の進言によって織田家に味方することを決めた小寺氏や小寺氏を
従えていた別所氏など多くの播磨の豪族達が織田へ味方することになります。
官兵衛は織田信長と会見して小寺氏が味方することを伝えると大いに喜び彼に刀を与えたそうです。
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戦国史ライター黒田廉のひとりごと
官兵衛は鋭い時勢眼と実務能力、
戦における采配の巧さによって小寺氏にはなくては習い人材へ成長することになるのです。
青年期の官兵衛は自信に満ち溢れ、
順風満帆な人生を歩んでおりましたが、彼の人生は織田家に味方したことを
決めた時から大きく変化していくことになろうとは彼自身思いも寄りませんでした。
「今回の戦国史お話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃあまたにゃ~」
参考文献 中公新書 黒田官兵衛など
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