後漢の時代は、長い平和が続き、商業が空前の発展を遂げた時代です。
人々は地道に田畑を耕すより、その日働けばその日に銭が手に入るビジネスに
魅力を感じ、仕事を2つ3つと掛け持ちする人々も出現します。
そんな中、大都市洛陽では、あるビジネスが非常に儲かるとして流行しました。
人の見栄に目をつけた、そのビジネスとは、一体何の事でしょうか?
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非常に儲かる!その商売とは○○屋!
後漢の安帝の時代、西暦107年~124年頃、
都である洛陽の市中に筆と竹簡を持って立っている人達が現れました。
彼等の仕事とは、何と代筆屋!客に頼まれて代わりに筆耕(ひっこう)をする
ビジネスをしていたのです。
当時は識字率が低く、文字を書ける人が少なく、士大夫と呼ばれる
知識人階層でも、それを恥じて書きませんでした。
代筆屋は、そこに目をつけて謝礼の代わりに文字を書いて、
生活を立てるという事をしていたのです。
しかし、よく考えると、この識字率というのはオカシイ話です。
代筆屋が出てくる位であれば、洛陽の中を頻繁に手紙が往復していた筈で
往復していたなら、読む事は出来たと考えられるからです。
つまり手紙のやりとりをする人々は文盲ではなく、
文字を読む事は出来たという事になります。
では、どうして自分では書かないのか?それは字が下手であったり、
文章の言いまわしに自信が無かったのです。
現代でも、綺麗な女性やイケメンが、下手な字を書いたら、
「あれ?」ってなりますよね、文字がキレイなだけで知的に見える
という経験を持つ人もいるのではないでしょうか?
後漢の時代でも、下手な文字や変な言いまわしの手紙を送り、
恥をかく事を恐れた見栄っ張りな士大夫やお金持ちが、
代筆屋を使って筆耕してもらい、それを、さも自分が書いたようにして、
出していたのだと思われます。
つまり、代筆屋はただ文字が書けるばかりではなく、名文家で、
美しい文字を書く事が出来る技能職だったのです。
1日で車に衣冠と宝玉が一杯になった!
代筆屋の商売は、社会的にステータスがある人々を相手にしていました。
筆耕の謝礼は、男の客は衣や冠、女の客は宝玉を贈っていたようです。
腕ききの代筆屋には、筆耕を頼むお客が途切れず、たった一日で
車は、衣服と冠、そして宝玉で満ちたと言われています。
その謝礼を考えると、やはり代筆屋を利用したのは、文字に親しんでいる
士大夫階級や大金持ちだと考えられます。
手紙一つでも見栄を張りたい、恥をかきたくないという特権階級の見栄が
このような代筆屋に多くの富をもたらしたのです。
肘や腕を宙に浮かせて書いた、能書家達
筆で書く文字は、ボールペンや万年筆と違い、何を書こうか?と
悠長に考えている間に墨が乾燥してしまいます。
そこで、沈思黙考して内容を固めると一気呵成に書き上げました。
晋の時代の武将、桓温(かんおん)が鮮卑(せんぴ)族を討伐した時、
袁宏(えんこう)にその戦勝報告文を書かせていますが袁宏は能書家でした。
彼は、馬前に寄って、手の筆を休めず、たちまちの間に
竹簡七枚を書きあげたと言われています。
また、魏の武将である夏侯玄(かこうげん)は、
柱に寄って文字を書いていましたが、柱に雷が落ち、柱も衣服も焦げる
被害を受けますが、彼は、書くのに集中していたので、
少しも気づかず、平然としていたと言われています。
当時は、机が普及していないので、両者とも肘や腕浮かせて、
文字を書いていますが、それでも少しも文字が安定感を失わないので
当時の人はその文字を美文として称えました。
三国志ライターkawausoの独り言
いかがだったでしょうか?文字が下手というコンプレックスと、
他人に見栄を張りたいという金持ちや士大夫の需要を掴んだ代筆屋。
その目の付け所の良さには、驚いてしまいますね。
もしかすると、手紙をくれた方も代筆屋、返事を書いた方も代筆屋という
奇妙な光景も洛陽では日常で見られたかも知れません。
もっとも、ただ、文字が書ければいいだけではなく、
美文で名文が書けないといけないので、
誰でもできるという仕事ではないという所が難点ですね。
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