黒田家の筆頭家老として活躍していた後藤又兵衛(ごとうまたべえ)。
だが彼は主人である黒田長政(くろだながまさ)と犬猿の間柄であった細川家との交流を行った
事が原因で黒田家を追い出されてしまいます。
そして彼は故郷である播磨(はりま)の地で潜伏しておりました。
こうして数年の間京と播磨の地を行ったり来たりしながら運命の地へ向かうことになるのです。
播磨へ到着
又兵衛は黒田家を出て行った後細川家へ逃れることになるのですが、
この地で数年匿ってもらった後故郷である播磨へ到着します。
播磨の領主となっていた池田輝政(いけだてるまさ)に匿ってもらい、
少しですが給料ももらっておりました。
この播磨の地は又兵衛の故郷であるため知り合いも多く、
給料がない状態では妻子を養っていくことが非常に難しいため、
知り合いである芥田家に寄寓することになります。
しかしなぜ又兵衛ほどの武将が他の大名家に仕えることができなかったのでしょう。
又兵衛を登用するな!!
黒田家当主である黒田長政は又兵衛が出奔した後、他の大名家に対してこのように要請します。
それは「当家の元家老である後藤又兵衛が最近出奔しました。
理由は我家のルールを守らなかったたためです。
そこで皆様方に又兵衛を召抱えないようにしてもらいたいと思います。
よろしくお願いします。」と伝えます。
この長政の話を聞いた中国地方や九州地方、四国の大名などは後藤又兵衛を
喉から手が出るほど登用したかったのですができませんでした。
長政は相当又兵衛がルールを破ったことに対して怒っていた事がわかります。
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池田輝政に匿われる
又兵衛は他家に仕えることができなかったため、芥田家に寄寓することなるのですが、
寄寓する前に播磨の大名である池田輝政(いけだてるまさ)に匿われていたことがありました。
輝政は又兵衛が播磨にやってきたことを知ると彼に給料を与えて匿います。
しかし長政が池田家に又兵衛がいることを知ると輝政に対して
「君の家に内の元家老であった又兵衛がいるらしいじゃないか。
彼を即刻播磨から追い出してもらいたい」と要請します。
輝政は「わかった」と返事を出しますが、又兵衛を領内から追い出すことなくそのまま匿います。
輝政死後もこの状態が変わらなかったのですが、長政は又兵衛がまだ播磨にいることを知ると
輝政の嫡男である利隆(としたか)へ
「早く又兵衛を追い出してくれないか。」とキレ気味に要請。
長政の怒りを感じた利隆は又兵衛を追い出す決意をしますが、
このことを知った又兵衛は知り合いである芥田家へ寄寓することになるのです。
ついに大阪城へ
こうして芥田家で数年を過ごしていた又兵衛に芥田家の者からある出来事が知らされます。
その者は又兵衛に「江戸と大阪の間で戦がいつ起きてもおかしくない状態になっております。」
と知らされます。
又兵衛はこの知らせを受けてから数ヵ月後に豊臣家の重臣である大野治長(おおのはるなが)から
大阪城へ来てくれないかと誘われたことがきっかけで大阪城へ向かうことになります。
そしてついに大阪城へ向かう日が到来すると今まで匿ってもらっていた芥田家で別離の宴会を
開いてもらいます。
こうして又兵衛は大阪城へ向かうことになるのです。
戦国史ライター黒田レンの独り言
こうして又兵衛は芥田家を出て大阪城へ入城することになります。
当時彼は無給料出会ったにも関わらず、3千人の人数を率いて大阪城へ入城していますが、
一体どこからこの人数を得たのでしょうか。
それは又兵衛が中国地方にいる諸大名から人数を借りたのだそうです。
天下の諸侯は徳川家に忠誠を誓っているようなふりをして、
実は二股をかけていたのです。
もし徳川が敗北してしまった場合のことを考えて、又兵衛などの浪人衆に兵士を貸し与えて
おけば後で豊臣家に対して言い訳ができるからです。
このような事が豊臣家が生存していた当時はまだあったのです。
こうしてことから又兵衛や真田信繁らの浪人衆は兵を率いて
大阪城へ入城することができたのです。
参考文献 中公新書:後藤又兵衛 福田千鶴著
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