もし、この武将がこの君主に仕えていたらどうなったのか。想像は膨らみます。
今回は三国志の後半時期に活躍した蜀の姜維(きょうい)にスポットを当てていきたいと思います。
姜維はもともと魏に仕えていました。それが敵対する蜀に降伏し、
蜀の大将として活躍していくことになります。
敵国から降ったものをここまで出世させるというのは稀なことです。
もと仕えていた国が滅んでいるのであれば話は別なのですが、
姜維が仕えていた魏は大国としてずっと蜀に立ちはだかっています。
実に不思議な話でもあります。
前回記事:姜維は北伐の失敗で衛将軍に降格したのに何で大将軍に復帰出来たの?【前半】
日本の戦国武将で例えると
豊臣秀吉と徳川家康が争っていた時期があります。
実際に「小牧・長久手の戦い」では両者が激突しています。
結果は一応、痛み引き分けの形で収まっています。
両陣営で相手方に寝返ったものでいくと、徳川家康の重臣・石川数正がいます。
豊臣秀吉のもとでは信濃10万石の大名となりましたが、
石川数正は徳川家康にとって幼き頃からともに育った兄弟のような存在で、
岡崎城代や外交担当など幾多の重責を任されてきています。
10万石など安いものです。
寝返られて徳川家康は軍制を大きく変更せざるをえなくなります。
トップハンティングされたという事実や評判も含めかなりのダメージです。
しかし豊臣秀吉はさほど石川数正を重用していません。
ちなみに石川数正の息子たちは関ヶ原の戦いでまたも寝返り、
徳川方について所領を安堵されていますが、やがて江戸幕府に疑いをかけられ潰されました。
どんなに才能と名声も持つものでも寝返ったものはそこまで出世できないという例です。
それを考えると蜀の大将軍にまで成り上がった姜維は凄いですね。異例の出世です。
姜維の素性
姜維の家柄は、「天水の四姓」と呼ばれるほどの豪族です。
呉でいえば、陸遜(りくそん)の陸氏や顧雍の顧氏のような存在です。
充分に出世が見込める家柄なのです。
しかも姜維の父親が名誉の戦死を遂げており、姜維は若くして中郎として天水郡の軍務に参加します。
ローカル地方ではあるものの、ある意味エリート街道といっていいのではないでしょうか。
魏の西方の領土である雍州・涼州は異民族の脅威にさらされていましたが、
張既が長い期間上手く治めていました。やがて郭淮や陳泰に引き継がれていきます。
二人は蜀の北伐に対してよく対応しています。
姜維の立場はこの郭淮の配下のそのまた配下のようなものです。
西方での出世のチャンス
さらに出世するためには姜維は武功をあげる必要があります。
それは蜀の北伐を防ぐことであり、異民族を慰撫することです。
蜀の北伐は諸葛亮孔明が指揮をとっており、対抗策として魏は司馬懿を送り出しています。
司馬懿は基本的に持久戦を望んでいますから、
姜維が蜀との交戦で成果をあげるのは難しかったのではないでしょうか。
諸葛亮孔明が亡くなった後は蒋琬や費禕が遺志を継ぎますが、
彼らの力で北伐を成功させるのは無理な話です。
もしかしたら蜀の地形を利用し守りにはいったかもしれません。
そうなると姜維の出世のチャンスはさらに遠のきます。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
そこまで先を読んでいて姜維は蜀に降ったのかもしれません。
蜀は慢性的な人材不足でしたから、出世する隙はいくらでもあったのです。
しかも北伐し、武功をあげる機会もあります。
そこが諸葛亮孔明の姜維寝返りの落としどころだったかもしれません。出世を餌に引き抜いたのです。
並々ならぬ出世欲が姜維にはあったのではないでしょうか。
結論、姜維が魏に残っていたらさほど出世はできなかった。
さらに蜀は守りに徹して国力を高め崩しにくくなっていたため、
蜀の滅亡はさらに先の話になったかもしれない。
皆さんはどうお考えですか。
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