三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく「ろひもと理穂」です。
ここまで100以上の三国志話を取り上げてきましたが、まだまだ三国志の世界は広い!
そして深い!!
ってことで、初心に戻って魏の名将・夏候惇(かこうとん)に注目していきます。
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夏候惇の性格
なんといってもあの曹操が最も重用した将軍です。
曹操が魏王に即位したときに前将軍に任ぜられましたが、
曹操の車に同乗することや曹操の寝室に自由に出入りすることを許されています。
よほど信頼していたという証でしょう。
旗上げ当時から曹操に従っているわけですから、それなりの実績はあげています。
血縁関係もあります。しかしそれ以上に曹操が夏候惇を信頼した理由は、
夏候惇の性格にあるのではないでしょうか。
非常に義理堅く、謙虚で向上心を常に持っていたと伝わっています。
若い頃は自分の師匠を辱められて、その相手を殺しています。
どんなに歳を経ても、遠征中だろうが兵法家などを幕舎に招いて勉強していたともいいます。
また、私財に執着することもなく、むしろ他人や部下に財を分け与えていたとも記されています。
現に墓からは埋葬品が剣一振りだけしか見つかっていません。
この清廉潔白な夏候惇の姿が、曹操にはまぶしく、最も価値のあるものに映ったのかもしれません。
軍人としてのレベル
大将として兵を率いるうえで大切なことはなんでしょうか。
勇猛果敢に最前線で兵を引っ張ることでしょうか。
確かに兵を活気づけ、状況を打開するには効果的な手法です。
しかし大将のすることではありません。
武器の扱いが上手いことでしょうか。
敵の首を討つには必要な能力です。しかしそれは各部将の仕事です。
大将にはもっと必要な資質があります。
人の信頼を得、人をまとめ、より強い組織にする力です。
戦略は参謀がいくらでも考案します。
大切なのは、周囲を信じさせ、団結させる器量なのです。
この点において夏候惇は曹操配下のなかで最も優れた将軍だったのだと思います。
孫権に対する総司令官に夏候惇を任命したのもそれが理由ではないでしょうか。
曹操が一番のリーダーとして選んだことが、軍人としての夏候惇のレベルの高さを物語っています。
夏候惇の失態
とはいっても実際の夏候惇の活躍も知りたいものです。
旗上げ以来、いくつもの戦場を渡り歩いてきている夏候惇ですから武功は数多くあります。
その中で、逆に失態としてピックアップしたいのが呂布との戦いです。
曹操が徐州の陶謙を攻めているときに呂布が兗州で旗上げをします。
兗州に残っていた曹操配下の主だったものは夏候惇と荀彧でした。
夏候惇は曹操の妻子を救出しようと出陣しますが、なんと、呂布軍に捕らわれてしまうのです。
これはかなり衝撃的な話です。
なにせ夏候惇は東郡太守で守りの総大将的存在だったわけですから、軽率な行動ともとれます。
このときは夏候惇が信頼して従軍させていた韓浩が、
人質を捕られようが敵には屈せず、という覚悟を見せて徹底抗戦をします。
これで相手は狼狽し、韓浩は敵を撃退して夏候惇を救ったと伝わっています。
大将を見殺しにするわけですからかなりの決断です。
夏候惇は救出されて後、責めることもなく韓浩に感謝しています。称賛すらしているのです。
この辺り、さすがは夏候惇といったところでしょうか。
また、勉強家の夏候惇ですから、失敗を成功につなげようと猛反省したことでしょう。
こういったときの姿勢や成長が、曹操からのさらなる信頼につながっていったとも考えられます。
若い頃は夏候惇も無謀にも突っ走ってしまう傾向があったんですね。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
夏候惇については3回に分けてお伝えしていきたいと思います。
私の勝手なイメージでは、夏候惇は曹操軍で最も地味な将軍です。
実は、華々しい活躍ぶりをあんまり聞いたことがありません。
それでもずっと曹操軍の屋台骨を支えてきたのが夏候惇です。
地味なのにどんどん曹操の信頼を得ていったのも夏候惇なのです。
関羽や張飛、張遼や甘寧など個性的な猛者がひしめく三国志の時代において
夏候惇の存在もまた稀有なものだと私は考えます。
みなさんはどうお考えですか。
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