ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志は面白い!」のコーナーです。
(毎回コーナーの名前が違いますね……)
三国志の話のなかで読んでいて痛快なのは、蜀の諸葛亮孔明の「南征」のところです。
いかに諸葛亮孔明が賢く優れているのかがわかりやすく記されています。
ここで諸葛亮孔明ファンは確実に増えたはずです。
今回はそんな諸葛亮孔明の南征について2回に渡り掘り下げてみましょう!!
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泣いて斬った馬謖のアドバイス
街亭の戦いの敗戦から、泣いて斬らねばならなくなった馬謖(ばしょく)。
彼は諸葛亮孔明からかなりの期待を受けていた若手のホープです。一番弟子みたいな感じでした。
とにかくリアクションが速い。諸葛亮孔明が問うとすぐに答えが返ってきます。
そんな利発な馬謖を諸葛亮孔明は可愛がっていました。
西暦225年、諸葛亮孔明は南方平定のために出陣します。
当時は谷昌を中心に異民族が好き勝手やっていました。
蜀から見れば反乱ですが、異民族たちからみれば支配からの独立です。
自由を勝ち取るための戦いです。
馬謖はその隣郡の越嶲郡の太守となり、情報の収集に当たります。
そして南征に赴く諸葛亮孔明になんと生意気なことにアドバイスするのです。
「用兵の道は心を攻めて上策とし、城を攻めて下策とす」という孫子の言葉を伝えます。
諸葛亮孔明は馬謖に教えられたと深く感じ入るのです。
さすがは器の広い諸葛亮孔明ですね。
谷昌地方の攻略方法
谷昌地方は高峰が連なり、天然の要塞です。
攻め込んで倒すことができても、被害は大きく、
また、以後の統治のために多くの兵を割かなければならなくなります。
蜀にはそれができない事情がありました。
それは蜀の至上戦略である「魏の討伐」のためにほとんどの兵力を割かねばならなかったからです。
つまりその北伐を成功させるために南を鎮めておく必要がありましたが、
そこに兵を置いておくことはできないのです。
馬謖は異民族を力で支配するのではなく、
人心を収攬しなければ意味がないと言いたかったわけです。
諸葛亮孔明も同じ意見でした。
こうして諸葛亮孔明は世にいう「七縦七擒」を実現させることになるのです。
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ゾトアオとはいったい何者なのか
このとき、蜀に反乱を起こしたのは建寧郡の豪族である雍闓(ようがい)です。
雍闓は交趾太守の士燮に通じて呉に寝返ろうとしていました。
彼は蜀の攻撃に備えるために高定や朱褒などの地元豪族と結託します。
さらに異民族を扇動するのです。
こうして蜀は彼らを野放しにはできなくなりました。
諸葛亮孔明は李恢や馬忠と共に兵を三つに分けて南に攻め込みます。
首謀者の雍闓は早々に味方に殺されてしまうのですが、
異民族の首領がリーダーとなり抵抗を続けてくるのです。
この異民族の首領こそが「ゾトアオ」です。
かなりのカリスマ性を持っており、異民族は彼を中心にまとまっていたようです。
谷昌地方の統治
気になるゾトアオについては次回詳しくお話するとして、
この谷昌地方について少し説明を追加しましょう。
蜀は北伐を控えていたために谷昌地方の直接統治は行っていません。
完全に中華の領土として組み込まれたのは、そのはるか後の話です。
モンゴルのフビライがここまで遠征したときが最初になります。つまり元の時代ですね。
そこまではほぼ独立国家の様相を呈していたということになります。
ちなみに漢民族の開発が着手されるのは、さらに先の明の時代を待つことになります。
そこまでいくと日清戦争も間近になります。
けっこう最近の話で驚きます。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
さて次回は「ゾトアオ」の正体について触れていきます。
三国志マニアの方々はもうおわかりですね。
そうです。あの人です。
も・う・か……いえ、次回をお待ちください。
次回記事:ゾトアオとはどんな人?人間を超越している異民族の首領【後編】
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—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—