蜀の五虎将軍の馬超(ばちょう)を殺す寸前まで追い詰めた人物がいたと聞くと、意外に思う人もいるかも知れません。その名を閻行(えんこう)と言い、関中の大物軍閥である韓遂(かんすい)の部下です。しかし、そんな彼も最期には韓遂を裏切り曹操(そうそう)の計略に落ちてしまうのです。今回は、三国志、魏書、張既(ちょうき)伝に引く魏略から閻行について紹介しましょう。
この記事の目次
馬騰と韓遂がぶつかった時、若き馬超をボコボコにする
閻行は、字を彦明(げんめい)と言い、涼州の奥地の金城に生まれました。すでに騒乱の時機を迎えていた涼州で、閻行は関中の軍閥、韓遂の指揮下に入り対立していた馬騰(ばとう)との戦いに参戦、デビューしたばかりの二十歳そこそこの馬超(ばちょう)を矛で突き刺して落馬させ、折れた柄で頸動脈を締め殴る蹴るを加え、殺す寸前まで追い込みますが、馬騰の救援がやってきたので果たせませんでした。戦の経験の違いを見せつけた閻行の勝利ですが、武勇に自信があった馬超は、さぞかし鼻っぱしらをへし折られた事でしょう。
西暦209年、曹操に会い犍為太守に任命される
曹操が華北を平定して、関中に司隷校尉の鐘繇(しょうよう)を置くようになると、関中の軍閥争いも一時小康状態になり、韓遂も曹操の下へ閻行を派遣します。韓遂の勢力を削ごうと考えていた曹操は、閻行を厚遇し、彼を犍為(けんい)太守に任命し同時に、父を鄴(ぎょう)へ連れてくるように命じました。
「これは、汝を信じるから言うのだ、汝の身内が鄴におれば、帝もワシも要らぬ不安を覚えないで済む、な?そうだろう」
閻行は、曹操に色々吹きこまれて、帰ると韓遂に言いました。
「ボス、あなたが漢王朝に叛いたのは、好きでしたのではなく、やむを得ない事情があっての事でした。それは、私から曹丞相につぶさに伝えてあります、この辺りで矛を置いて共に漢王朝の繁栄の為に尽くしていこうではありませんか?」
韓遂が変な顔をしていると、さらに閻行が言います。
「私も、ボスと共に戦場を駆けまわる事三十年以上、兵も私も疲れてきましたし領地も味方も減るばかりです、実は、私は丞相の勧めで父を鄴へ住まわせていますボスも、御子息を鄴に送って恭順の意を示した方がいい」
韓遂は、長年の仲間に説得されて考え込んでしまいましたが、もうしばらく様子を見ようと言い、即答を避けました。
韓遂、馬超と結んで謀反を起こす。
韓遂は、考えた末に子供を鄴に送りだしました。西暦211年、韓遂は西で張猛(ちょうもう)を討ち、旧領には閻行を置いて守らせます。しかし、曹操が漢中討伐を決意した事で関中の自分達の立場も危ういと考えた馬超は、韓遂を呼び出し、共に叛こうと密議を持ち掛けました。韓遂は馬超の提案に乗り気ではありませんでした。曹操には、もう人質を出しているのです、叛いたらどうなるか?待っているのは、人質皆殺しという現実だけです。
それでも馬超は説得します、鄴には馬超の父、馬騰及び親戚一同もいますが、自分はそれを捨て韓遂を親とするから、あんたも俺を息子と思ってくれという強引なものでした。韓遂は謀反を決意します、馬超の熱意に打たれただけではありません。漢中が平定されれば、あの曹操が関中だけを軍閥の支配に任すわけもなく、理由をつけて兵を取り上げられるか、悪ければ殺されると見たのでしょう。
閻行は、韓遂を説得するが耳を貸さない
それを知った閻行は、韓遂にすぐに会いに行き変心を願います。
「何をしているんですボス、あの跳ねっ返りに協力して我が子を殺されたいのですか!!」
「もう言うな!彦明、叛いたのは跳ねっ返りだけではない・・羌族も氐族も関中の軍閥も味方についている、これは天命だワシらだけ反対しても、味方に殺されるだけじゃ」
閻行は止むなく、韓遂に従い、馬超の反乱に加担する事になります。
韓遂と閻行は馬上で曹操と会談、そこで曹操は・・
こうして、潼関(どうかん)の戦いが始まりますが、一時は優勢だった馬超と韓遂の連合軍と曹操の戦いは膠着状態になります。曹操は、何とか和睦に持ち込もうと、単身にて馬上での会談を韓遂に申し込みます。このような会談形式を交馬語(こうばご)と言います。韓遂と曹操は若い頃、洛陽でバカをやった仲間であり、時折、共に手を叩き笑い合う程に思い出話に花を咲かせます。そこで、曹操は、韓遂の背後に閻行の姿を見つけると、目ざとく声をかけます。
「おーい、彦明よ、親は大事だのぅ、親孝行はせんといかんぞ!」
閻行は、今更ながらに曹操に父親の命を握られている事を思い出し、生きた心地がしませんでした。
閻行、曹操の手紙により陥落、、韓遂を裏切る
やがて、この交馬語からの不信が原因になり、馬超は韓遂を疑い連合軍は崩壊、馬超は漢陽郡に逃げ、韓遂は金城に戻り、閻行もそれに従います。そして、恐れていた通り、曹操により韓遂、そして馬超の一族が皆殺しにされたという情報が入ってきます。ですが、その中に、閻行の父親の話はありませんでした。疑心暗鬼になっていると、そこへ曹操からの手紙が届きます。
「文約はバカな男だ、あれだけ手紙で忠告してやったのに叛いた、、もう、忍耐してやる事は出来ぬ、だから人質を殺したのだ。それはそうと、彦明、君の父は牢獄に入ってはいるが元気に暮らしているぞ、、だが、元々、牢獄は人を長く養う場所ではないし、牢獄も公費で賄っている以上、いつまでも他人の親を置いてもおけぬ、さて、どうしたものか・・」
このまま、韓遂の元にいるなら、父親がどうなるか保障できないと言いたげな脅迫の手紙でした。それを知った漢遂は、閻行の父も曹操に殺させて未練を断たせようと、少女を嫁として閻行に与え、閻行はそれを断れませんでした。
曹操は不信感を強めますが、その頃、閻行は韓遂の命令で西平を領有。そこで、とうとう韓遂に反旗を翻します。韓遂は、これを撃破しますが、閻行は逃れて曹操の下に走ります。
三国志ライターkawausoの独り言
曹操は逃げてきた閻行を歓迎し、彼を列侯に封じたと言います。基本的に遊牧民は家族単位で動いているので身内を思う気持ちが厚く、曹操は、そこを利用して閻行を離反させたのです。韓遂にとっても、三十年来の戦友である閻行の離反は痛恨事で、その後、「もう蜀に逃れようか」とぼそっと呟いたりし、部下の成公英(せいこうえい)に叱責されたりしています。
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