張既(ちょうき)とはどんな人?反乱の多かった雍州・涼州の二州を見事に統治した名政治家

2015年12月16日


 

 

反乱の多かった雍州・涼州の二州を見事に統治した名政治家・張既(ちょうき)を探れ張既は三国志を好きな方でもマイナーな人です。むしろ彼の名を知らない人の方が大勢いると思います。魏の首都である洛陽以西は反乱が多発している雍州や涼州があります。武力で押さえつけてもすぐに反乱を起こす二州をしっかりと統治した張既は、まさに名政治家です。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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青年期から優れた知恵者として名声を得る

 

張既は庶民の子として生まれます。幼い時から挙動に品格があり、字を巧みに書くことで、名を知られていきます。彼は青年になると県の役人に就職します。しかし名門出身ではないためこのままでは出世できないと考え、あることを思いつきます。

 

さてここではじさんクイズです。彼が出世するためにいつもあるものを用意して県の役人から認められるようになります。それは一体何でしょう。次の三択からお答えください。

 

三国志クイズ

 

1間違った文章を訂正するための小型の刀や高い筆、

2文章を書くときに引用する参考書

3自らを鍛え、役人のボディガードを志す

 

さぁーシンキングタイムの始まりでーす。

………正解は

1番です。

 

張既(ちょうき)はいつも懐に間違った文章を訂正する際に使用する小刀と高い筆を持ち歩き、上司が筆や小刀をきらすと黙って懐から筆記用具を取り出し渡します。この事を繰り返し行う事で、上司から「気の利くやつだ」と可愛がられます。その後張既は県の役人を辞め曹操に仕える事になります。

 



関中の諸将を手なずける役として活躍

馬騰

 

曹操は黎陽(れきよう)の戦いで袁尚を打ち破ります。彼はこの戦いの前に、鍾繇(しょうよう)へ関中の豪族である馬騰(ばとう)馬超(ばちょう)親子や韓遂らを味方に付けるよう命じます。

 

鍾繇は部下である張既に「関中の馬騰らを味方に付けるように」と命令を受け、彼は馬騰と何回も面会し、粘り強く説得を行います。彼の執拗な説得に馬騰はついに根負けし、曹操に味方することを約束します。張既は関中の諸将を味方に付ける事に成功した実績が認められ、議郎に昇進します。

 

荊州討伐に踏み切れない曹操

朝まで三国志 曹操

 

曹操は北方を平定すると次なる目標を荊州に定め、荊州攻略作戦の計画を立てます。しかし曹操軍が荊州討伐に向かった隙をついて関中の諸将が攻めてくる可能性があるため、荊州討伐に踏み切れませんでした。

 

曹操はこの懸念を払拭するため張既に「われらが荊州討伐に赴いている間、馬騰ら関中諸将が出陣しないようにせよ」と命じます。張既は曹操の命令を受けると、関中の馬騰に「あなたの軍勢を解散させて、都に来るように」と伝えます。

 

馬騰は張既の言葉にうなずきますが、一向に都へ来る気配を見せません。張既は万一、馬騰が関中に攻撃を仕掛けてきた場合に備え、各地の県に兵糧を運びこむように通達。同時に県の役人に馬騰を迎えに行くように命じます。

 

馬騰は県の役人が迎えに来たことで、都へ上ることを決心します。曹操は馬騰が都に来たことを大いに喜び、彼を衛尉に任命します。彼を厚遇する事で、馬騰の息子馬超が反乱を起こさないようにします。

 

しかし馬超は曹操の予想通りにはならず、涼州と雍州の諸将や異民族をかき集め挙兵します。

 

馬超討伐戦と漢中討伐戦で活躍する

 

馬超は父馬騰を救出するため、挙兵します。張既は曹操に従って馬超討伐戦に赴きます。張既は潼関の戦いで功績をあげ馬超軍を破る事に貢献します。

 

潼関の戦い後も馬超は雍州各地で反乱を起こしますが、曹操軍に連敗。馬超は軍勢を建て直すため、漢中の張魯(ちょうろ)の元に逃走します。張既は馬超の反乱で荒廃した雍州の各地を復興させるため、善政を敷くことに注力します。

 

彼の善政により、雍州各地は次第に復興され、以前よりも潤った土地になっていきます。曹操は関中平定が完了した事を受け、漢中の張魯討伐へ出陣します。張既は別働隊を率いて異民族である氐族を討伐します。

 

また劉備軍が漢中に侵攻した際には、劉備軍の武将である呉蘭を打ち破る功績を挙げます。その後漢中を救援にきた曹操と劉備が本格的な戦を開始。両軍は長い対峙を続けますが、魏の領内に孫権が侵攻してきたことが原因で、曹操は漢中からの退却を決意。しかし劉備が漢中制圧後北に進出する事を恐れていました。

 

張既は曹操の不安事案を取り除くべく彼に「氐族に穀物豊かな北方へ移動するよう勧めましょう。その際彼らに武都へ早く着いた者には褒美を与えると条件を付ければ、皆この魅力に逆らえず従いましょう」と進言します。曹操はこの進言を取り上げ実施します。すると氐族は5万人ほどが漢中の北方にある武都へ移住を開始。劉備軍は氐族が武都にいるため、曹操軍を追撃する事はありませんでした。

 

関中を10年以上見事に治める

 

彼は関中をその後も10年以上にわたって見事に治めます。10年の間には異民族や土地の豪族など様々な反乱が頻発します。しかし彼は武力や対話、謀略などを駆使し、見事に関中を統治します。また彼は統治に優れているだけでなく、有能な人材も多く推挙します。張既に推挙された人材としては楊阜(ようふ)や胡遒(こじゅん)などが活躍し、歴史に名を連ねていきます。曹丕(そうひ)は彼が亡くなると大いに悲しみ彼を「粛侯」と追諡(ついし)します。

 

三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

関中統治に身命をそそいだ張既を紹介しました。彼が居なければ、河北平定戦や赤壁の戦いで敗れた後、関中の諸将が攻撃を仕掛けてくる可能性は大いに考えられます。そう考えると、関中以西を守り続けてきた守護神といっても過言ではないと私は思います。

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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