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五丈原の戦いの裏側で活躍した魏の満寵とは?前編

2017年3月26日


 

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ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく

「ろひもと理穂の三国志のあの時、あの人」のコーナーです。

 

 

西暦234年2月、蜀の諸葛亮孔明は10万の兵を引き連れて五丈原に陣を張ります。

対峙するのは魏の大将軍・司馬懿仲達。

諸葛亮孔明は挑発行為を仕掛けますが、司馬懿仲達は動きません。

100日ほど過ぎて諸葛亮孔明が陣中にて病没します。

ここであの有名な「死せる孔明、生ける仲達を走らす」イベントが発生するのですが、

この時、五丈原の戦いの裏側、つまり呉と魏の戦いのほうはどうなっていたのでしょうか。

今回から2回に渡り西暦234年に起きた呉と魏の衝突について触れていきましょう。

 

関連記事:合肥の戦いで張遼が孫権を討ち取っていたら三国志はどうなった?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹操亡き後の孫権との関係

 

以前にお伝えしてきましたが、曹操と孫権は合肥を巡って何度も衝突してきました。

孫権は張遼などに苦戦を強いられ、合肥を奪い獲ることはできませんでした。

やがて孫権は曹操に降ります。あくまでも建前上の話でしたが、

それでも休戦状態となり、合肥の戦線もしばらくの間は静かになります。

 

 

その間、孫権は荊州の関羽を攻めて討ちました。荊州を手にするために曹操と休戦したのです。

その曹操も関羽とほぼ同時期に病没しています。

すると、関羽の敵討ちと称して劉備自らが孫権の領地に攻め込んできました。

孫権は慌てて改めて正式に魏に臣従を誓い、曹丕によって呉王に封じられます。

 

 

曹操の後継者たる曹丕はこのときすでに魏の皇帝に即位していました。魏の文帝です。

西暦222年、呉王となった孫権は劉備を迎撃し、大勝します。

文帝は孫権に息子の孫登を人質に出すように迫りますが、孫権は面従腹背の構えでこれに応えません。

しかも勝手な元号を使い始める始末です。

文帝は怒って呉に兵を差し向けます。

孫権は蜀と外交を行い、関係の修繕をはかります。

西暦223年、孫権は魏軍を濡須口で破り、劉備が病没したタイミングですぐに同盟を結びました。

こうして合肥を巡る戦いがまた始まるのです。

 

文帝VS孫権

 

文帝はこの孫権の背信行為に激怒します。

孫権にいいように利用されていただけだと知って、

文帝はプライドをかなり傷つけられたのではないでしょうか。

それにしても孫権はしたたかですね。昨日の敵は今日の友とはまさにこのことです。

蜀の政治は諸葛亮孔明が指揮をとっていましたから、

孫権のしたたかさに苦笑いしながらも冷静に同盟を結んでいます。

諸葛亮孔明は蜀建国の志である簒奪者・魏の討伐を至上戦略としていたからです。

文帝は西暦224年と225年に自ら出陣し孫権討伐を試みますが、共に失敗に終わりました。

この二度の親征の失敗がさらに文帝に強烈なストレスをかけました。

西暦226年5月に文帝は崩御します。

文帝VS孫権は互いに領土拡大とはなりませんでしたが、

したたかさの上では孫権に軍配が上がりることになるのです。

 

明帝VS孫権

 

魏は曹叡(そうえい)が二代目の皇帝に即位しました。明帝の誕生です。

曹叡は祖父である曹操に、その聡明さを愛されていたといいます。

曹叡は明帝となって孫権と争うことになります。

西暦226年8月、孫権は文帝崩御で混乱している魏を攻めます。

しかし失敗に終わりました。

そして西暦228年8月、魏の明帝は曹休を総大将に任じ、10万の兵で孫権を攻めました。

 

 

守る孫権軍の総大将は陸遜。周鮑の偽りの投降の効果もあり、

石亭の戦いにおいて陸遜が曹休を大破します。

勢いに乗った孫権は翌、西暦229年4月に皇帝に即位し、呉が誕生します。

曹休は敗北から病になり死去、その後継者には満寵が選ばれます。

この満寵こそが呉の強力なライバルになるのです。

 

三国志ライター ろひもと理穂の独り言

 

前置きが長くなりましたが、こうして満寵が登場してきます。

もちろんその前から満寵は活躍していましたけどね。

果たしてこの満寵、したたかな呉の孫権相手にどれほどの活躍をするのでしょうか。

 

続きは次回です。お楽しみに。

 

 

次回記事:五丈原の戦いの裏側で活躍した魏の満寵とは?後編

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ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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