蜀の諸葛孔明の後継者である費禕(ひい)。
彼は蜀の国政のトップに君臨しておりましたが、
どんなに忙しくても自分の趣味をしっかりと行う時間を削ることはしないスーパー政治家でした。
そんな彼は魏から投降してきた郭修(かくしゅう)という人物に殺害されてしまいます。
しかしこの人物はどのような動機で彼を殺害したのでしょうか。
今回は魏のアサシンである郭修をご紹介します。
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西平の有名人
郭修は西平(せいへい)では非常に有名な人物であり品行方正で評判が高かったそうです。
そんな彼は西平で役人として働いていた時、
蜀の軍勢を率いて侵入してきた姜維(きょうい)の軍勢に捕まってしまいます。
姜維はこの西平の有名人・郭修を幾度も蜀に願えるように説得。
郭修は彼の説得に初めは応じませんでしたが、
あることが頭に浮かんだため姜維の説得に応じて蜀へ降伏することを決意します。
彼は蜀に降伏することで皇帝劉禅を殺害してしまおうと考えていたため、
姜維の説得に応じて降伏することにします。
アサシン郭修の暗殺計画その1:劉禅暗殺計画・・・・失敗
郭修はその後蜀の首都である成都(せいと)へ連れて行かれます。
成都の宮殿で蜀の皇帝である劉禅(りゅうぜん)に拝謁した彼は、
劉禅を刺し殺すために非常に小さな刀を懐に潜ませておりました。
劉禅はそうと知らずにニコニコと笑いながら彼の降伏を喜び左将軍を下賜。
郭修はかしこまって左将軍の位を貰うことになるのですが、
劉禅の周りには多くの文官達や護衛兵がいたために近づくことができませんでした。
そのため暗殺計画は失敗に終わってしまいます。
費禕の宴会に呼ばれる
蜀の国政を担っていた費禕は大軍を引き連れて漢寿(かんじゅ)と言う場所に駐屯しておりました。
なぜ彼は蜀の国政を担っていた人物であるのに漢寿にとどまっていたのでしょうか。
その原因は占いです。
費禕はなんとなく占い師に成都にこのまま戻っていいのかを占ってもらいます。
すると結果は「このまま成都へ戻るのは危険でしょう」との答えが返ってきます。
そのため彼は魏の領土へ攻め込むことをしないで、
軍勢を解散させずに漢寿に駐屯しているのでした。
彼は仕事に忙殺されていながらちょっと暇を見つけると趣味を行っておりましたが、
あるとき魏から降伏していた郭修との懇親会を開いていない事に気づきます。
そして彼は仕事が一段落すると郭修へ「君が蜀に来てから、
私は君とじっくり話し合ったことがないことに気づいた。
そこで君とじっくり話し合いたいと思うので、宴会を開こうと思うから来て欲しい」と
郭修の元へ使者を送ります。
郭修は費禕からの手紙をもらうと使者に「わかりました。
日時をお教えいただければ参上いたします。」と述べて使者を返します。
郭修はこの時に暗殺のターゲットを劉禅から費禕に変更します
アサシン郭修の暗殺計画その2:費禕暗殺計画
費禕は約束していた宴会を開く準備を終わらせるとすぐに郭修へ使者を出します。
郭修は費禕からの使者と一緒に宴会場へ入ると費禕自ら彼の手をとって大いにもてなします。
郭修は宴会場に集まった諸将の前で改めて自己紹介をした後ドンチャン騒ぎが始まります。
諸将はしたたかよっていると判断した郭修は、
すぐに費禕の側に寄ってかれに毒を塗った小さい刀を刺します。
蜀の諸将は大いに驚きすぐに郭修を捕らえて処刑します。
しかし費禕も郭修の必殺の一撃によって亡くなってしまうことになります。
三国志ライター黒田レンの独り言
郭修が行った費禕暗殺は魏の本国に届きます。
魏の朝廷では郭修の行いを褒めて彼を侯の位を追贈し、
彼の息子には郭修の侯の位を引き継がせ領土を与えて大いに彼を褒め称えたそうです。
しかし三国志を知っている人でも中々郭修の名前を知っている人は
いないのではないのでしょうか。
彼が行った行為により蜀は滅亡を早めることになるので、
もう少し知名度があってもいいような気がするのはレンだけでしょうか。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書1 今鷹真・井波律子著
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