清洲会議。この会議は羽柴秀吉が山崎の戦いで、織田信長を殺害した明智光秀を討ち果たした後に行われる会議です。
この会議の場所は織田家の最初の本拠地としていた尾張の清洲城で、行われた会議なので清洲会議と命名されることになります。
清洲会議には元織田家の重臣達が遠路はるばる集合して、清洲城で会議を開くことになるのですが、清洲城で一体何の会議をしたのでしょうか。実はこの会議で非常に重要な案件が話し合われることになるのです。今回は重要案件が話し合われた清洲会議についてご紹介していきたいと思います。
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清洲会議開催決定
秀吉は明智光秀を山崎の戦いで撃ち破った後、光秀討伐軍の総大将であった織田信孝と一緒に安土城へ入城。光秀を討伐したことによって織田軍の内乱は終焉を迎えることになるのですが、問題は山積みでした。
問題その1として織田信長の後継者をいったい誰にするのかという事です。妥当に考えるならば信長の息子である織田信孝・織田信雄のどちらかが信長の後継者と名乗れば解決しそうですが、どちらも仲が悪く勝手に信長の後継者と名乗れせれば、再び織田家の中で内乱が勃発する危険性がありました。
問題その2としては信長が拡大した織田家の領土問題です。信長が亡くなったことで信長の直轄領が空白地帯となってしまい、そのまま放置プレイしていれば誰かに占領されてしまう恐れがありました。これらの問題を解決するため、織田家筆頭家老である柴田勝家が織田家の重臣達を清洲城に集合させることにします。
こうして清洲城で上記で上げた問題解決や今後の展望を話し合うための会議が、開催されることになります。
宿老クラスの武将が集結
勝家は北陸の要所に武将達を配置して、上杉家の逆襲があってもいいように手当を行った後、尾張・清洲城へ向かいます。羽柴秀吉も長浜城で清洲会議で話し合いが行われる内容を事前に検討した後、清洲城へ向かっていきます。
さらに秀吉と一緒に光秀討伐戦で活躍した丹羽長秀、池田恒興も勝家に呼ばれたため、清須へ向かって行くことになります。こうして織田家の宿老クラスの人物たちが清洲城に一同に介することになるのです。
あれ!?そういえば一人司令官クラスの武将がいたような気がすると気づいた皆さん。皆さんは戦国時代のちょっとしたマニアと言っていいと思います。そうです。織田家には一人隠れた司令官クラスの宿老がおりました。
その名を滝川一益と言います。彼は清洲会議の主催者である柴田勝家に呼ばれませんでした。一体なぜなのでしょうか。
滝川一益が呼ばれなかった理由とは?
織田信長は甲斐の武田勝頼を滅亡させた後、滝川一益を関東方面司令官に任命します。滝川一益は「信長様。わっちは年で戦に耐えられません。茶器を信長様から頂いて引退しようと思うのですが・・・・」とお願いします。
すると信長は「おみゃ~に渡す茶器はね。しっかり働け」と言われてしまい、渋々関東方面司令官の地位を受けたそうです。
そんな彼にも本能寺の変のニュースが届きます。一益は驚いてしまいますが、このニュースを聞いて数日後北条家が一益軍に襲いかかってきます。一益は北条軍を撃退するため激闘を繰り広げますが、北条軍の攻撃を弾き返すことができずに敗北してしまい、一益の味方となっていた上州の豪族達は四散してしまいます。
そのため、滝川一益の軍勢は激減することになり、命からがら所領である伊勢へ舞い戻ってくるのです。勝家は一益が司令官でありながら北条軍に大敗して、軍団を四散させてしまったことから彼を清洲会議に呼ぶことをしませんでした。こうして一益抜きで清洲会議は行われることになります。
清洲会議の第一議案:信長の後継者を誰にするか
さて清洲城に入城した柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興らは、とりあえず一通りの挨拶を述べた後、清洲会議の第一議案である織田信長の後継者を誰にするか話し合います。通説ですと柴田勝家が織田信孝こそ信長の後継者とするのがいいと指名。
しかし羽柴秀吉は勝家の意見に反対して「信忠様の嫡男・三法師様こそ織田信長様の正統後継者にふさわしい」と提案。この意見に丹羽長秀や池田恒興が賛成したことによって、織田信長の後継者は三法師に決まることになります。
だが最近の研究によると信孝を推していた柴田勝家も三法師を織田家の後継者にした方がいいと秀吉の意見に賛成していたとする研究結果がだされているそうです。レンも勝家・秀吉両名が三法師を信長の後継者とする動きが正しいのでは、ないかと考えます。
その理由として、山崎の合戦で大した活躍をしていない信孝や信長生存時からバカ殿と噂されていた信雄が信長の後継者となれば、織田家が乱れてしまい安定した統治を行うことができないと秀吉と勝家が考えていたのではないのでしょうか。また一次資料として「金井文書」や「多聞院日記」に秀吉・勝家両名が三法師を信長の後継者とするべしと提案している記録が残されているそうです。
こうして第一議案である信長の後継者が決定されることになります。
第二議案:空白となった織田家の領土問題
さて次に行われたのは空白となった織田家の領土問題です。この問題はスパット解決することになります。まず秀吉は自らの本拠地を放棄して柴田勝家に上げてしまいます。勝家は北陸の越前を安堵し、秀吉が領有していた北近江三郡を勝家が領有することになります。さらに丹羽長秀には本拠・若狭を安堵され、近江から二群を与えられることになります。
そして池田恒興は摂津から三郡を与えれることになり、この会議に参加した諸将は秀吉以外加増されることになります。秀吉は北近江を放棄した代わりに山城を貰うことになるのです。さてこれら第二議案については、秀吉が勝家の代わりに主導権を握っていたのではないかと考えられます。秀吉はこの会議が終わった後、播磨・姫路城へ帰還すると信長が好んで舞った幸若舞である「敦盛」を舞って、大喜びしたとする記載があります。
領土の割り振りは君主にのみ許された専断権であり、清洲会議で秀吉手動でこの国の割り振りが行われたのであれば、秀吉が姫路で上機嫌に敦盛を舞った記述にも納得できます。しかし勝家が君主の専断権を行使している秀吉の行動に黙っているわけがありませんでした。
戦国史ライター黒田レンの独り言
清洲会議によって織田家の後継者が決まり、織田家が有し空白地帯となっていた所領問題も解決することになります。これで再び織田家が一枚岩となって信長が果たせなかった天下静謐に向かって邁進するのかといえばそうではありませんでした。
勝家は清洲会議後の秀吉が調子づいていく姿を見て、秀吉に敵対する意思を見せ始めていきます。そして秀吉と勝家の敵対関係は抜き差しならないところにまで、発展していくことになるのです。
参考文献 ソフトバンク新書 秀吉家臣団の内幕 滝沢弘康著など
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