ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志もしもボックス」のコーナーです。
これまで三国志の世界の中で多くの「if」についてお話をしてきましたが、
今回は夷陵の戦いの後の魏のリーダーである曹丕の決断についてです。
リーダーにもいろいろな種類がいます。果敢に攻めるリーダーもいれば、
守りを重視するリーダーもいます。
どちらにせよリーダーの決断とは実に重いものです。
時にそれが国の命運を左右することになります。
戦国時代にはやはり活発に動き回るリーダーが注目を集めます。
曹操や孫策がその筆頭でしょう。
日本でも織田信長や豊臣秀吉はその部類なのではないでしょうか。
ハイリターンにハイリスクは付き物です。
侵略には大きな賭けの要素も加わります。しくじると国は傾くのです。
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夷陵の戦い
西暦222年に蜀の劉備は、関羽の仇討ちと荊州奪還のために呉の領地を攻めます。
ちなみに劉備は前年に蜀を建国しており、皇帝という位です。
孫権は前年に魏に臣従を誓っており、呉王に封じられています。
ですから見方によれば蜀が魏の領地に攻め込んだことにもなるのです。
しかし魏の曹丕はまったく援軍を出していません。
両者が必死に戦い合い、瀕死の傷を負うことを待っていたような日和見状態です。
曹丕は西暦220年10月に皇帝に即位したばかりでした。
しかも前代未聞の禅譲による簒奪です。
後漢が滅んだことで動揺した民衆や名士は多かったのではないでしょうか。
まずは国内を落ち着かせること。それが曹丕に課せられた急務だったはずです。
九品官人法を徹底して落とし込むことにも時間は必要でした。
つまりまだ曹丕は戦争をしたくなかった(その時期ではなかった)と判断していたと思われます。
曹丕はリスクを回避し、守りを選んだのです。
夷陵の戦い後に蜀を攻めていたら
ここで三国志ifです。
では、夷陵の戦いの大敗後の蜀に魏が攻め込んでいたらどうなっていたでしょうか。
蜀は劉備が大敗のショックで白帝城に引き籠っている状態です。
しかも本陣の兵を多数失っています。蜀のダメージは計り知れません。
兵力、将の数、兵糧、どの面でも魏は蜀を圧倒しています。
しかし問題は蜀が長江の上流に位置し、四方を高い山脈に囲まれた天然の要塞だということです。
守るのはたやすく、これを攻めるのは非常に困難でした。
かなりの労力と損害を覚悟しなければなりません。
蜀に関羽や張飛がいないといえども、軍師には諸葛亮孔明がいますし、
趙雲や魏延、馬超(西暦222年に亡くなったようですが)も健在です。
何よりも危惧されるのはその隙に呉が蜀の領土に侵攻することです。
魏にとって呉が巨大化することは一番厄介でした。
魏が漢中辺りでモタモタしている間に、呉は長江を遡って成都まで落としてしまうかもしれないのです。
魏が蜀を攻めることで一番得をするのは呉になる可能性があったのです。
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先に呉を潰す
曹丕にとって孫権の臣従という結果は喜ぶものでしたが、
まだ信用するには足りなかったようで、しきりに孫権の息子を人質に出すよう要求しています。
しかし、呉にとっても魏がこれ以上に勢力を拡大することは避けねばならないことでした。
また、自治を守り、魏に対抗するためには蜀の協力が絶対に必要だったのです。
ここで孫権は時間稼ぎをします。それが曹丕の逆鱗に触れました。
ここに長きにわたる「合肥の戦い」が幕を開けます。
魏にとって最も邪魔な存在は、蜀よりも国力が豊かな呉でした。
先に呉を潰してしまえば、蜀など後でどうにでもなるからです。
しかも荊州と大勢の兵を失った蜀が魏に攻め込んでくることなどありえません。
戦力が整うのは随分と先になると曹丕は見ていました。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
結論、魏が蜀に攻め込んでいたら蜀を滅ぼせていたが、将兵を多く失い、
また最大のライバル国である呉の国力を高めることになった。
つまり魏と呉の国力の差が縮まるということです。
蜀より、先に呉を叩こうとした曹丕の決断は必ずしも誤りではなかったのではないでしょうか
皆さんはどうお考えですか。
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