「合肥」は戦略上重要な場所でした。その合肥をめぐり、魏と呉の間で何度も激しい戦いが繰り広げられました。その一連の戦いを「合肥の戦い」と言います。
なかなか決着がつかなかったと言われるこの合肥の戦いですが、その結果はどうなったのでしょうか。今回の記事ではそんな「合肥の戦い」について調べてみましょう。
この記事の目次
「合肥」という場所
「合肥」は現在の安徽省の省都にあたり、これは中国の平原地帯の中心部に位置しています。長江を挟んで北側、南側に進撃するいずれの場合でも合肥を通過する必要があり、中国北部から南部に進出、もしくはその逆側から進出する際にも重要な拠点となっていました。
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赤壁の敗北が「合肥の戦い」のきっかけに
西暦208年、曹操は「赤壁の戦い」で敗北してしまいました。曹操を破った勢いのまま、孫権は北上し、合肥を攻撃します。
曹操は「蒋済」を派遣、彼は「援軍4万が向かっている」という偽の手紙を孫権軍に奪わせることによって慌てた孫権軍を撤退させることに成功します。
その後も北上の気配を見せる孫権をにらみ、合肥は最も重要な戦略拠点となりますので、曹操はそこに「張遼」「楽進」「李典」という歴戦の勇将を派遣し、守りを固めました。
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合肥での最大の戦い
合肥での最も大きな戦いが行われたのが西暦215年の事です。孫権は劉備との荊州争奪戦がひと段落し、再び北上を開始しました。孫権自ら10万の兵を率いて合肥城に向かいます。それに対して張遼率いる合肥守備軍はわずか7千人にすぎず、あっという間に孫権軍は城を包囲します。
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張遼、奮戦す
諸将は動揺しますが、張遼は「援軍到達まで耐えようとしてもこの兵力差では困難だろう。それなら孫権軍の出鼻をくじき、その後守りに徹すれば孫権軍は攻撃が慎重になり、城を守れるだろう。」と決死隊800人を募り、孫権軍に夜襲を仕掛けます。
張遼は自ら先頭に立って槍を振るい、孫権の本陣に迫ります。その張遼の戦いぶりに孫権軍は恐れ、思わず道を譲った、とも言います。張遼が夜が明けるまで戦い続け、その後撤退。張遼の読み通り、その後の孫権軍は勢いが落ちます。
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孫権、撤退する
孫権軍は士気が落ち、結局は合肥を陥落させることはできませんでした。加えて陣中には疫病が蔓延。孫権は合肥からの撤退を始めます。そこに張遼と楽進が兵を率いて攻めかかります。孫権軍は包囲され、自身も矢の雨にさらされてしまいます。
そんな中孫権配下の「凌統」がわずかな配下とともに奮戦、何とか孫権の逃げ道をつくります。しかし、退路の橋は張遼によって落とされており、絶対絶命のピンチに。
そんなとき孫権配下の「谷利」というものが孫権の馬に鞭を打ち、何とか孫権の馬は橋を飛び越えることに成功します。今回は合肥攻略は失敗しましたが、その後もたびたび孫権は合肥を狙っていくのです。
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