織田信長(おだのぶなが)。
戦国時代の革命児と呼ばれた人物として、
小中高の歴史の教科書にも度々登場。
またゲームや小説、マンガ、アニメなどに登場しており、
戦国時代を知らない人でも一度は聞いたことのある超有名な歴史上の人物です。
彼は尾張統一後、今川義元(いまがわよしもと)率いる大軍が尾張へ攻撃を開始。
信長は有名な桶狭間(おけはざま)の戦いで彼を討ち取り、
今川軍を退けることに成功します。
その後信長は岳父・斎藤道三が領有していた美濃(みの)を攻略。
こうして信長は尾張・美濃二カ国を領有する大大名へ成長することになります。
そして彼はついに戦国武将の夢である上洛にむけて動き始めますが、
上洛を果たすために大義名分が必要でした。
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上洛するための大義名分とは
織田信長は美濃を平定すると京都へ勢力を広げようと考えておりました。
しかし彼は織田家単独で京都へ向かうと多勢力が、
どのように織田家に対して動いてくるのか状況分析を行ないます。
そして信長はあることに気付きます。
それは京都へ向かうには大義名分や事前工作が必要であることです。
なぜ信長は単独で京都へ向かうことをしなかったのでしょうか。
まず京都へ向かうまでにいくつかの大名家を通過しなくてはなりません。
北近江(きたおうみ)の浅井氏・南近江の六角氏(ろっかくし)。
さらに京都を抑えている三好家や近畿に点在している諸大名。
もし信長が大義名分や事前工作を得ることなく京都へむけて出陣すれば、
京都の道のりにいる浅井氏や六角氏と戦うことになります。
(浅井氏とは美濃攻略前に同盟しているため敵ではありません)
さらに彼らを倒して京都へ領土を広げても、
近畿近辺にいる三好家や諸大名と争わなくてはなりません。
彼らと争って勝つためにはかなりの時間を要し、
もし彼らに勝つことに成功しても織田家も無事では済まないでしょう。
信長はこれらを考えていため、(他にも京都へ向かうための門地がないため、
この名門と言われる門地の代わりになるような大義名分が欲しかったことも
単独で京都へ向かわなかった理由として挙げられると思われます)
大義名分を得ようと考えます。
将軍様を迎える
信長は京都へ向かうための大義名分を得るため、
越前(えちぜん)・朝倉氏の元に身を寄せているある人物に使者を送ります。
その人物の名前は足利義昭(あしかがよしあき)です。
彼は兄貴で将軍であった足利義輝(あしかがよしてる)が三好家に殺害され、
自らの身にも危険が迫っていることから京都を抜け出し、
各地を転々としておりました。
彼には一つの野望があり室町幕府を再興するために京都へ戻ることでした。
そんな野望を持っていた義昭の元に信長から
「将軍様を迎えて京都へ上洛したいと思っております。」
と使者がやってくるとすぐに朝倉氏の元を去って岐阜城(ぎふじょう)へやってきます。
各地の諸大名へ使者を送る
信長は義昭を迎える前に各地の大名へ使者を送ります。
まず三好家と仲が悪くなっていた松永秀久(まつながひでひさ)へ
義昭に味方するように使者を送ります。
さらに南近江の大名である六角氏へ人質を出すように要請。
この六角氏との交渉は失敗に終わってしまいます。
また京都へ向かっている最中に岐阜に攻撃を仕掛けられないよう、
甲斐(かい)の虎こと武田信玄の息子・勝頼と自らの娘を婚姻させ、
同盟を成立させます。
そして北近江の浅井氏の当主である長政と信長の妹であるお市を結婚させ、
婚姻関係を結びます。
こうして各地に事前工作を行って義昭を迎えた信長はついに京都へ向けて出陣することになるのです。
戦国史ライター黒田レンの独り事
信長は義昭を岐阜に迎えることに成功すると大軍を率いて京都へ向けて出陣。
南近江の六角氏を滅亡させて、京都へ到着することになります。
こうして信長は京都に織田の旗を打ち立てることに成功するのですが、
彼の苦しい時期はここから始まることになるのです。
参考文献 中公新書 織田信長 脇田修著など
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