陳登(ちんとう)は部下に優れた人物が幾人もおりましたが、特に優秀な人物と言えるのは二人だけでした。ひとりは徐宣(じょせん)という人物で、彼は陳登が亡くなると曹操へ仕えることになります。そして今回の主人公である陳矯(ちんきょう)も陳登の配下の中で、徐宣と同じくらい優れていた人物でした。この陳矯も曹操に仕えることになるのですが非常に忠誠心に溢れた人物で、決断力に富んだいてもし彼が曹操に仕えていなれば、大変なことになっていかもしれません。
陳登を救うために曹操の元へ
陳矯は陳登に仕えておりましたが、陳登が支配していた広陵(こうりょう)へ孫権軍が攻め込んできます。陳登は陳矯へ「曹操殿の元へ行って援軍を要請してきてくれ」と命令され、曹操の元へ向います。陳矯は許に到着するとすぐに曹操に会見。彼は曹操へ「我が主陳登が支配する広陵は小さい郡ですが、敵軍が侵入した際には有利な地形をしている場所です。もし曹操殿に臣従させて頂けるのであれば、この地方は全て曹操殿の味方をすることが出来るでしょう。是非援軍を送っていただければと思います。」とお願いします。曹操は陳矯の言葉を聞いて彼に優れた才能を感じ、自らの幕僚として向かい入れたい意向を示します。
陳矯の忠誠心
陳矯は曹操から誘われると彼へ「我が主陳登が困っているにも関わらず、私が曹操殿の配下になってしまえば、恩義に逆らうことになります。このような不忠をすることは私にはできません。」ときっぱりと曹操の誘いを断ります。曹操は陳矯が厚い忠誠心を持っていることに感心して、陳登を助けるために援軍を差し向けることにします。陳登は陳矯のおかげでなんとか危機を脱することに成功するのです。
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曹操死す
陳登は曹操に臣従したことがきっかけで陳矯は曹操に仕えることになります。彼は各地の太守や中央で活躍し曹操に付き従って戦にも参加しておりました。陳矯はこのように活躍しておりましたが、主人である曹操が亡くなってしまいます。当時曹操の後継者は曹丕と決まっておりましたが、群臣達は曹操が亡くなるとすぐに会議を開き「皇帝から曹操の後継であると任命されなければ、まずいのではないのか」と会議で発言をしておりました。この会議に参加していた陳矯は群臣達の意見を聞いておりましたが、彼は反対意見を群臣へ向けて述べます。
「曹魏は分裂するかもしれませんぞ!!」by陳矯
陳矯は群臣達へ向かって「もし後漢王朝の皇帝からの指示を待っていれば、天下は大混乱に陥ることになるのは間違えないでしょう。その間に呉や蜀が攻め込んできたらどうするのですか。また曹丕様が太子となることは決まっており、すぐに曹操様の後継者として擁立しなければ、曹植様や曹彰(そうしょう)様が太子の座を狙って曹丕様と争いを始めれば、曹魏は分裂するかもしれませんぞ!!」と反対意見を述べます。この意見を聞いた群臣達は陳矯の意見に賛成してすぐに曹丕を曹操の後継者として擁立することにします。
三国志ライター黒田レンの独り言
陳矯は非常に忠誠心の厚い人物で、曹操に誘われながらもきっぱりと断り主人に対してしっかりと忠誠を貫く姿勢は素晴らしいの一言に尽きます。また曹操が亡くなった後の決断力は優れていると言っていいのではないのでしょうか。もし彼がいなければ後漢王朝の皇帝の許可をもらってから、曹操の後継者として曹丕が立つことになっていたかもしれません。そうなれば呉や蜀が曹魏へ攻め込んで、曹操の後継者から外されていた曹彰や曹植が曹操の後継者として、名乗りをあげていたかもしれません。そうなれば曹魏はバラバラになり、三国志は存在していなかったかもしれませんね。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書3 今鷹真・井波律子著など
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