日本にビールが入ってきたのは、幕末の頃でした。
西洋諸国と通商条約が締結され、港の傍に外国人居留地が建設されていき、
外国人が楽しむ飲み物としてビールが輸入されだしたのです。
そして、このビール明治に入ると日本人の喉を潤すようになります。
日本人で最初にビールを味わった人の中には、西郷隆盛、大久保利通、
木戸孝允等、維新の三傑も入っていたようです。
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この記事の目次
明治4年1月明治天皇の勅使として山口を訪れた維新の三傑
明治4年1月7日、右大臣の岩倉具視は、参議大久保利通、
鹿児島藩大参事、西郷隆盛を伴い山口県を訪問します。
それは、明治維新最期にして最大の大改革である廃藩置県において、
旧長州藩主で現知藩事である毛利敬親の協力を得る目的でした。
毛利敬親は岩倉に協力を約束し、その後酒宴となりました。
重箱料理と共に、ビールが五本ずつ西郷と大久保に届けられる
この時の酒宴には、西郷と大久保は招かれていないのですが、
毛利家から、吸い物や寿司、刺身、煮魚などの宴会料理と共に、
ビールが五瓶ずつ送られたという記録が残っています。
この時、大久保は山口道場門前町の安倍平右衛門宅に宿泊、
西郷は、安倍彦十郎家に別々に宿泊していましたので、
それぞれ、バラバラに御馳走とビールを楽しんだと考えられるのです。
また、当時、同じく参議の木戸孝允も山口にいたそうで、
大久保や西郷とコンタクトを取っています。
もしかすると、残りのビールを肴に維新の三傑の3名でビールを飲んだ
その可能性もないとは言い切れませんね。
ビールに執着する大久保とそうでもない西郷
西郷どんが大きな体の割にお酒が弱い事はよく知られています。
逆に西郷どんは大変な甘党で、脂っこい料理が大好きで、
豚のスペアリブの煮つけや、羊羹やサツマイモをペロリと平らげました。
そのせいで、後年はかなり太ってしまうのですが、、
一方の大久保利通は、胃弱で常に痩せていたのにかなりの酒好きで
文明開化の象徴であるビールも大変に気に入ったようです。
明治10年には北海道開拓使の黒田清隆がビール1ダースを送って
機嫌を取ろうとしているのを見ても、その酒好きが分かります。
しかし、当時のビールはほとんどが輸入品である上にかなり高価で
とても庶民が飲めるような代物ではありませんでした。
大久保は自身がビール好きである事もあり、ビールを国産化して国民に飲ませ、
そこに酒税を掛けて財源にしようと、かなり現実的な事を考えていたようで、
岩倉使節団で世界視察に出るとイギリスでは、ビール醸造所を視察していて、
記録には、「バーミンハム麦酒製造所」という名前が見えるそうです。
一方で明治政府で留守番している西郷は、元々酒が好きでもなく
大久保のようにビールに執着していないようです。
ビールが裂いた西郷と大久保の仲?
一説では、海外視察で西洋かぶれしていく大久保に対し西郷どんは嫌悪感を持ち
洋装で映した写真を大久保から贈られると「醜悪でごわす」と顔をしかめたとされます。
なんだか、大久保がイギリスでビール工場を視察する間に仲が悪くなったようですが、
この説には大きな違和感を感じます。
写真や西洋かぶれでいえば、西郷どんの師である島津斉彬の方が
比較にならない蘭癖、西洋オタク大名だったからです。
もし、西郷どんが単純な西洋嫌いなら島津斉彬を尊敬する事は無かったでしょう。
ですので、これは西洋かぶれが原因ではなく、大久保が西洋に傾倒するあまりに、
道義心を忘れ、弱肉強食の西洋帝国主義を当然の事として受け止めていき
東洋王道を忘れ去っていく事への嫌悪感だったのだと思います。
事実、大久保は帰国後、西郷の征韓論を潰しておきながら、
明治9年には江華島事件を起こし、砲艦外交で李氏朝鮮と不平等条約を結び
下野していた西郷は、その事に激怒しているからです。
幕末ライターkawausoの独り言
ビールを巡る維新の三傑の話をしてみました。
岩倉使節団の一員としてイギリスまでビール製造所を視察した大久保利通、
そこには、明治4年に山口で飲んだビールの味が忘れられないという
感傷があったのでしょうか?
一方でビールには、そんなに関心がなかった西郷どん
二人のすれ違いの契機になった岩倉使節団とビールの関係でした。
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