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大久保利通や西郷どんもビールを飲んだ!明治4年山口での文明開化

2018年3月6日


 

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日本にビールが入ってきたのは、幕末の頃でした。

西洋諸国と通商条約が締結され、港の傍に外国人居留地が建設されていき、

外国人が楽しむ飲み物としてビールが輸入されだしたのです。

そして、このビール明治に入ると日本人の喉を潤すようになります。

日本人で最初にビールを味わった人の中には、西郷隆盛(さいごうたかもり)大久保利通(おおくぼとしみち)

木戸孝允(きどたかよし)等、維新(いしん)の三傑も入っていたようです。

 

西郷どん:全記事一覧はこちら

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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明治4年1月明治天皇の勅使として山口を訪れた維新の三傑

 

明治4年1月7日、右大臣の岩倉具視(いわくらともみ)は、参議(さんぎ)大久保利通、

鹿児島藩大参事(かごしまはん・だいさんじ)、西郷隆盛を伴い山口県を訪問します。

それは、明治維新最期にして最大の大改革である廃藩置県(はいはんちけん)において、

旧長州藩主で現知藩事である毛利敬親(もうりたかちか)の協力を得る目的でした。

 

毛利敬親は岩倉に協力を約束し、その後酒宴となりました。

 

重箱料理と共に、ビールが五本ずつ西郷と大久保に届けられる

 

この時の酒宴には、西郷と大久保は招かれていないのですが、

毛利家から、吸い物や寿司、刺身、煮魚などの宴会料理と共に、

ビールが五瓶ずつ送られたという記録が残っています。

 

この時、大久保は山口道場門前町の安倍平右衛門宅に宿泊、

西郷は、安倍彦十郎家に別々に宿泊していましたので、

それぞれ、バラバラに御馳走とビールを楽しんだと考えられるのです。

 

また、当時、同じく参議の木戸孝允も山口にいたそうで、

大久保や西郷とコンタクトを取っています。

もしかすると、残りのビールを肴に維新の三傑の3名でビールを飲んだ

その可能性もないとは言い切れませんね。

 

 

ビールに執着する大久保とそうでもない西郷

 

西郷どんが大きな体の割にお酒が弱い事はよく知られています。

逆に西郷どんは大変な甘党で、脂っこい料理が大好きで、

豚のスペアリブの煮つけや、羊羹(ようかん)やサツマイモをペロリと平らげました。

そのせいで、後年はかなり太ってしまうのですが、、

 

一方の大久保利通は、胃弱で常に痩せていたのにかなりの酒好きで

文明開化の象徴であるビールも大変に気に入ったようです。

明治10年には北海道開拓使の黒田清隆(くろだきよたか)がビール1ダースを送って

機嫌を取ろうとしているのを見ても、その酒好きが分かります。

 

しかし、当時のビールはほとんどが輸入品である上にかなり高価で

とても庶民が飲めるような代物ではありませんでした。

 

大久保は自身がビール好きである事もあり、ビールを国産化して国民に飲ませ、

そこに酒税を掛けて財源にしようと、かなり現実的な事を考えていたようで、

岩倉使節団で世界視察に出るとイギリスでは、ビール醸造所を視察していて、

記録には、「バーミンハム麦酒製造所」という名前が見えるそうです。

 

一方で明治政府で留守番している西郷は、元々酒が好きでもなく

大久保のようにビールに執着していないようです。

 

ビールが裂いた西郷と大久保の仲?

 

一説では、海外視察で西洋かぶれしていく大久保に対し西郷どんは嫌悪感を持ち

洋装で映した写真を大久保から贈られると「醜悪でごわす」と顔をしかめたとされます。

なんだか、大久保がイギリスでビール工場を視察する間に仲が悪くなったようですが、

この説には大きな違和感を感じます。

 

写真や西洋かぶれでいえば、西郷どんの師である島津斉彬(しまづなりあきら)の方が

比較にならない蘭癖(らんぺき)、西洋オタク大名だったからです。

もし、西郷どんが単純な西洋嫌いなら島津斉彬を尊敬する事は無かったでしょう。

 

ですので、これは西洋かぶれが原因ではなく、大久保が西洋に傾倒するあまりに、

道義心を忘れ、弱肉強食の西洋帝国主義を当然の事として受け止めていき

東洋王道を忘れ去っていく事への嫌悪感だったのだと思います。

 

事実、大久保は帰国後、西郷の征韓論(せいかんろん)を潰しておきながら、

明治9年には江華島事件(こうかとうじけん)を起こし、砲艦外交で李氏朝鮮と不平等条約を結び

下野していた西郷は、その事に激怒しているからです。

 

幕末ライターkawausoの独り言

 

ビールを巡る維新の三傑の話をしてみました。

岩倉使節団の一員としてイギリスまでビール製造所を視察した大久保利通、

そこには、明治4年に山口で飲んだビールの味が忘れられないという

感傷があったのでしょうか?

 

一方でビールには、そんなに関心がなかった西郷どん

二人のすれ違いの契機になった岩倉使節団とビールの関係でした。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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