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幾島とはどんな人?篤姫の尻を叩いて将軍後継者問題を進めた女スパイ

2018年3月23日


 

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13代将軍、徳川家定(とくがわいえさだ)に嫁いだ篤姫(あつひめ)勝海舟(かつかいしゅう)に堅固にして剛毅(ごうき)と言われた女性ですが

大奥には、篤姫以上に気が強い仕切屋の女性が存在していました。

それが篤姫付きの老女として大奥に入り、斉彬の命令を忠実に実行しようとした幾島(いくしま)です。

大河ドラマ西郷(せご)どんでは、二代目スケバン刑事、南野陽子演じる幾島

実際にはどのような女性であったのでしょうか?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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薩摩藩士、朝倉孫十郎景矩の娘として誕生

 

幾島は1808年に薩摩藩御側用人、朝倉孫十郎景矩(あさくらまごじゅうろうかげのり)の娘として誕生しました。

本名は朝倉糸(あさくらいと)、なんだか薩摩には糸という女性が多いようです。

成長した彼女は島津斉宣(しまづなりのぶ)の娘、郁姫(いくひめ)の御付き老女として藤田を名乗り

五摂家(ごせっけ)近衛家(このえけ)に入ります。

 

郁姫の夫になったのは、近衛忠煕(このえただひろ)で、幕末には篤姫の輿入れや

将軍後継者問題で薩摩の為に色々骨を折ってくれた良い人でした。

しかし、1850年、仕えていた郁姫が亡くなり、藤田は出家して得浄院(とくじょういん)と号し

郁姫の菩提(ぼだい)(とむら)っていました。

 

島津斉彬がヘッドハンティングし篤姫の養育係として江戸に上る

 

菩提を弔っていた得浄院に目をつけたのが島津斉彬(しまづなりあきら)でした。

13代将軍、徳川家定の正室として養女の篤姫を送り込もうとしていた斉彬に取り

京都での所作典礼に詳しい得浄院は得難い人材だったのです。

得浄院も薩摩の女性として薩摩藩の勢力拡大は望む所なので、斉彬の誘いに乗り

篤姫を近衛家の養女にしグレードを上げるのと同時に自身も幾島と改名して

今小路孝由(いまこうじたかよし)の養女という身分を得てから江戸に上ります。

 

そして、家柄は良いとはいえ、薩摩の田舎姫に過ぎない篤姫に

御台所(みだいどころ)としての所作や礼儀作法を叩きこんでいくのです。

 

※御台所:将軍の正室の別称

 

俺達尊攘派

 

ブ厚いガードを打ち破り大奥に食い込んでいく幾島

 

実は薩摩藩は、篤姫以前に大散財大名、島津重豪(しまづしげひで)が娘の茂姫(しげひめ)

11代将軍(いえなり)の正室に送り込んだ事がありました。

しかし、それはそれ、これはこれ、前例があるとはいえ、

遠く離れた薩摩藩、それも関ケ原では公然たる敵だった大名の姫を

御台所に迎えるのは、将軍家定も、彼の生母の本寿院(ほんじゅいん)も、

寵愛(ちょうあい)を奪われるかも知れない家定の側室も面白くありませんでした。

これを何とかしたのは、天性剛毅で意志強固な篤姫ばかりではなく

老女である幾島の活躍も大きかったのです。

 

幾島は、斉彬から膨大な資金を与えられ、味方になりそうな勢力には

惜しげもなく金銭をばらまいて女傑と呼ばれる人だったそうです。

当事者である篤姫以上に、斉彬の指令を実行すると言う

意欲に溢れた女性だったと言えるでしょう。

 

 

奇跡的に家定と篤姫の関係は良好となるが・・新たな問題が

 

家柄を問題にする御三家の徳川斉昭(とくがわなりあき)の反対もあったものの、、

1855年には篤姫は徳川家定の正室として迎えられました。

当初は、薩摩の姫と距離を置いていた家定も実際に顔を合わせると

相性はさほど悪くもなかったようです。

 

篤姫は犬が好きで、大奥に入っても犬を飼ったそうですが、

家定が犬嫌いなのを知ると、代わりに猫を飼うようになったそうです。

犬がダメなら猫というのも唐突なので、もしかすると家定も猫が好きで

この辺りから関係が改善したかも知れません。

 

しかし、この事は幾島には困った事でした。

彼女の使命は、病弱な家定に早く後継者を決めてもらう事であり、

さらに後継者を水戸藩出身で一橋家に入った一橋慶喜に決めてもらう事です。

もちろん、篤姫もそれは承知していて、家定に後継者は慶喜にして下さいと

折を見て頼むのが将軍家の正室になった目的でした。

 

ですが、仲が良くなったという事は、篤姫が妊娠する可能性が出てきた

そういう事でもあり、それなら後継者云々は持ち出す必要はないのです。

 

篤姫も後継者の事を家定に持ち出して良いのか悩み、

家定の生母である本寿院に相談すると、

 

「家定は、自分をまだ若いと思っていますからね、、

後継者の話などするべきではありません。

夫婦仲が悪くなるではありませんか」

 

という具合で、すっかり篤姫に初孫誕生を期待するオババ様の顔

 

篤姫としても家定との間に子供が出来て我が子が将軍になる方が

女性としての幸せに繋がるので、幾島がいくら尻を叩いても、

嬉しいやら困ったやらの顔をするばかりです。

 

幾島は怒って篤姫の養父である近衛忠煕に

後嗣問題(こうしもんだい)に熱心ではない篤姫を叱って下さい」と

手紙を送っている程でした。

 

将軍後継者問題から橋本左内と西郷隆盛も接近

 

さて、将軍後継者問題では、西郷どんも斉彬の手足として働いています。

当初、篤姫の輿入れに不賛成だった松平春嶽(まつだいらしゅんがく)を、同じく一橋慶喜擁立という

立場から味方に引き入れる為に、西郷どんを春嶽の懐刀の橋本左内(はしもとさない)

接触させたというのが最初のようです。

 

つまり、将軍の御台所に篤姫を送り込むのは、決して島津の私欲ではなく

篤姫を通して、家定に次期将軍を一橋慶喜に決めさせるためであり、

ひいては、政治から除外されていた外様や親藩の大名が、

幕府の政治に関与しやすくする為であると説明したのでしょう。

 

西郷どんは、薩摩藩江戸藩邸の老女筆頭の小ノ島(おのしま)を通して篤姫に

「なんとか家定公に後継者を慶喜にすると決心させて下され」と

手紙を通して催促(それが斉彬の方針だから仕方ない)していて

篤姫は西郷には悪感情を抱いていたとも言われます。

 

まぁね、仲が悪いわけじゃない夫婦に割り込んで、

「早く後継者を決めてくれ」としつこく言われれば、

篤姫でなくても不愉快にはなるでしょう。

   

その後の幾島

 

家定の子を産みたいという篤姫や息子の子供が見たいという本寿院の願い、

一橋慶喜を後継者に据えて、幕府政治を改革したいという斉彬、幾島、

西郷どんの狙いは両方とも叶いませんでした。

 

1858年の8月14日、家定は35歳の若さで死去しますが、

その直前に後継者を、紀州藩主、徳川慶福(とくがわよしとみ)に決定していたからです。

家定は大奥から、一橋慶喜や慶喜の父である徳川斉昭の悪口を吹き込まれ

また慶喜が、かなりの美男であった事から嫉妬心(しっとしん)で慶喜を選ばなかった

とも言われています。

 

まもなく、将軍後継者問題を強力に推し進めた島津斉彬も急死、

後継者工作の為に江戸城に送り込まれた篤姫と幾島の政治的な使命は

唐突に終わりを告げてしまうのでした。

 

幾島は1864年頃に体調を崩し、大奥を引退していきました。

しかし、篤姫との関係は切れていなかったようで、鳥羽伏見(とばふしみ)の戦い前後に

再び大奥に戻り篤姫や和宮(かずのみや)と協力し、軍勢を率いて東上してくる薩摩軍に対し

徳川慶喜の助命嘆願の使者として乗り込み江戸無血開城に協力したそうです。

この頃には病気が悪化し、自分では歩けない状態だったそうですから執念ですね。

 

幾島「故郷薩摩の御為に江戸に上ったこのアタイが、何の因果か徳川の手先

ほじゃけど、武器も名誉もかなぐり捨て寛永寺で謝罪恭順している上様に、

これ以上、なにかしようというんなら、おまんら 許さんぜよ!」

 

※上のセリフは飽くまで想像です。

 

その頃、彼女は60歳になっていましたが、後継者問題で

ブイブイ言わせていた当時の迫力が残っている感じですね。

 

幾島は明治3年、63歳で東京で没しました。

幾島の墓は島津家の菩提寺である大圓寺(だいえんじ)に葬られています。

死後も薩摩に帰らなかった篤姫と対照的に

幾島は薩摩女として葬られたのです。

 

幕末ライターkawausoの独り言

 

幾島と言うと、斉彬の代弁者として、篤姫の尻を叩く女丈夫の感じですが

使命を終えた後は、篤姫の要請に応じて古巣である薩摩藩の軍勢の前に

病身を推して立ちはだかるとは、情のある女性だなと思います。

 

女の幸せを犠牲にしてまで篤姫に辛い決断をさせた事への自責の念か、、

或いは、篤姫を大奥に送っておきながら、非情にも軍隊を送り込んで

江戸を火の海にせんとする西郷の決断に

「それは余りで御座いましょう!」という憤りを持ったのか

今となっては、どちらが理由かは分かりませんね。

 

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西郷どん

 
 

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