26歳でその短い生涯を閉じた橋本左内――
橋本左内は福井藩の藩医の家に生まれました。その才覚を藩主・松平春嶽に見出され、
側近として、徳川幕府14代の将軍擁立の政争の中に身を投じていきます。
俊才、天才、神童と評された橋本左内は、
15歳のときに「啓発録」という自分の生き方、未来の自分に向けた言葉を残しています。
今回は、橋本左内が15歳のときに書いた「啓発録」について紹介し、
その名言について考察していきます。
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橋本左内とは?
橋本左内の名は、福井県外の人の場合、
相当な歴史好きの人でないかぎりピンとこないかもしれません。
しかし、福井県では、未だに「橋本左内」と呼び捨てにすると
「橋本左内先生と呼べ」というご老人もいるくらいに尊敬されているそうです。
橋本左内は福井藩の医師の子として生まれますが、
幼いころから神童と呼ばれるほどに頭脳に秀でた人物だったとのことです。
しかし、彼はそれでも自分に満足できないのです。
なにせ、比較対象が歴史上の英傑です。そのような存在に比べ自分なんと矮小なのか――
そんな思いから15歳で「啓発録」を書きます。
橋本左内は、当時の日本最高の医学塾ともいえる適塾で蘭法医学を学びます。
天才・橋本左内の優秀性は福井藩主・松平春嶽の目にとまることになります。
医師になるはずであった彼は、政治の世界に足を踏み込み、
幕政の中にも大きく入り込み、将軍後継問題にも関わっていきます。
このとき、同士とも言うべき存在となったのが
NHK大河ドラマ「西郷どん」の主人公である西郷隆盛です。
橋本左内と西郷隆盛はともに、将軍後継問題で幕政を動かそうとします。
このとき最後隆盛は、橋本左内の能力高さを今風にいえば
「自分と同世代では最高」という言葉で評してます。
しかし、大老・井伊直弼が彼らの前に立ちふさがりました。
井伊直弼は将軍後継問題で主導権を握り、橋本左内、西郷隆盛の目指す一橋慶喜擁立を潰します。
そして、井伊直弼は、幕政に介入してくる外様、外部の大名などを排除するため、
将軍後継問題に介入してきた政治勢力を一蹴する弾圧を開始します。
それが安政の大獄です。橋本左内は捕らえられ、志半ばで刑死することになります。
26歳のときでした。
「啓発録」とは?
橋本左内が「啓発録」を描いたのは15歳のときです。すさまじく早熟の天才です。
その内容はとても15歳(今の中学二年生)のレベルの書くようなレベルでなく、
福井県にある左内公園の石碑には「啓発録」の言葉が刻まれ、
福井県内では「啓発録」は読本となり、小中学生が内容を学んでいるのです。
橋本左内の15歳で書いた「啓発録」には、「一.稚心を去る」、「一.氣を振う」、
「一.志を立てる。」。「一.学に務める」、一.交友を選ぶ」ことが、
今後の人生で重要であり、そのために何をすべきなのかが、詳細に書かれています。
かなり尖った内容で、15歳の橋本左内の目から見た当時の武士の堕落振りの批判もあります。
かなり厳しい目で大人である武士をみています。
そして、橋本左内が目指すのは歴史に名を残した人物たちなのです。
源平時代の15歳で命をかけて戦ったような人物に思いを馳せます。
確かに平家物語の中にはそのような年齢で立派な最後を遂げた人物の描写もあります。
橋本左内は「啓発録」を書くことで、目標である歴史上の大人物に近づく自分を想定したのです。
そして橋本左内は「啓発録」に書かれたことに恥じない人生を歩んでいきます。
少なくとも他人が「啓発録」を知っていれば、その後の橋本左内の生き様をみて
「啓発録」の書いただけで済ませていない人生を送っているように見えたでしょう。
「啓発録」の内容を解説
橋本左内の「啓発録」は5つの誓いで構成されています。
この誓いの詳細をみてきましょう。
「 稚心(ちしん)を去る」ですが、「稚心(ちしん)」とは子どもっぽい心のことです。
子どもとは親に頼り、子どもの遊びに興じる存在です。
橋本左内は、もうそのような心は捨てるべきだと誓います。
父母への依存心、子どもっぽい遊びと決別し、己を研鑽することを誓います。
「気を振るう」とは、とにかく他人に負けるなということです。
他の人にできるなら、己にもできるはずだということですね。
士気を奮って己の研鑽を続けよという厳しい言葉ですね。
「志を立つ」とは、自分の人生の目標を決めるということです。
それを歴史に名を残した人物に習い、それを学び、
自分に足らぬものが埋まっていくのを楽しんでいけという事を書いています。
生きていく目標をたて、それを目指すことに喜びを感じることを
15歳の年齢で書いているのに驚きです。
「学に勉む」は、立派な人物の行いを学び、親孝行しましょうという
普通のことも書いていますが、凄まじいのは、
人生の目標の達成するまで学び続けよと自分に言っていることです。
今のように言い大学に入って卒業すれば「勉強」は終わりというような感覚ではないです。
人生の目標を達成するまで常に学び続けることを橋本左内は誓うのです。
「 交友を択ぶ」は、言葉のまま、付き合う友人を選ぶことも当然ですが、
その友人が間違った道に行ってしまったら、それを正しい道に引き戻すのも使命であると書いています。
自分さえよければいいというような、ただのマニア的な学究の徒を目指したわけではありません。
学ぶこと。そして学んだからには、その学びに従い行動する。その思いが色濃くでています。
多くの幕末の志士を育てた吉田松陰の「学者になるな」という言葉に近いものを
「啓発録」感じてしまいます。
橋本左内の名言
橋本左内の名言「啓発録」の中に帰されている言葉の中で
「学問とは、人として踏み行うべき正しい筋道を修行することであって、
技能に習熟するだけのものでは、決してない。」という言葉を取り上げてみます。
これは、吉田松陰が松下村塾で塾生に説いていた
「学者になってはならぬ、人は実行が第一である」と
教え諭していた言葉とほぼ同じ意味ではないでしょうか。
吉田松陰といえば、松下村塾で多くの幕末の志士を生み出した人物です。
くしくも吉田松陰も橋本左内と同じく安政の大獄で刑死します。
死に際に吉田松陰は橋本左内と面識が無かったことを悔います。
橋本左内が「学問の意味と人としての行動」についての結論に至ったのは15歳のときです。
吉田松陰の言葉と並べ、そのときの橋本左内の年齢を考えると
その頭脳が傑出していたのであろう事が簡単に想像できます。
西郷隆盛が「世代最高の人材」と評したのも頷けることではないでしょうか。
幕末ライター夜食の独り言
幕末期には早熟の天才が多いです。
吉田松陰にしても、幼くして山鹿流軍学の師範として講義を行っています。
しかし、学問に対する意味、そしてなぜ学問をするのか、
この時代で自分は何をなすべきなのかという点についての早熟ぶりでは、
幕末の英傑の中でも突出したものではないでしょうか。
西郷隆盛は意外に人物を見る目が厳しい人です。人の器量を試すこともよくやっています。
その西郷隆盛が最高の人物であると認め、死を知らされ悲しみました。
そして、西郷隆盛が西南戦争で自刃した際にも橋本左内の手紙を持っていたのです。
それほどまでに、西郷隆盛は橋本左内の人物を評価していたのでしょう。
幕末において、具体的に何かの実績を残したとはいえない橋本左内ですが、
多くの人物が彼の死を惜しみ、その才能を惜しんだのは事実です。
橋本左内は、もっと注目されてもいい幕末の英傑のひとりではないでしょうか。
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