新選組は2004年の大河ドラマ『新選組!』だけでなく、様々なドラマや映画でも取り上げられるため、歴史ファンの間で人気があります。新選組が有名になった事件と言えば、ほとんどの歴史ファンが池田屋事件を挙げるかもしれません。この記事では、新選組が注目されるようになった池田屋事件について取り上げます。
幕末の京都での事件について、討幕派の藩士や浪士が宿屋に集まっていて、その場所が事件の舞台になっていることから○○屋事件という言い方をします。幕末は○○屋事件というのが多くて間違えやすいと思います。今回は、池田屋事件と間違えやすい寺田屋事件も取り上げます。
近藤勇とは
近藤勇は1834年に現在の東京都調布市に生まれました。百姓の宮川家の3男として生まれ、勝五郎と名乗っていました。天然理心流剣術道場・試衛館に入門し、剣術の腕を磨きます。その後、近藤家の養子となり、近藤勇と名乗りました。近藤勇を含む試衛館8人は14代将軍徳川家茂を警護する浪士組に応募しました。浪士組は新選組の前身と言われています。
新選組と名前を変えてから、会津藩松平容保のもとで、京都の討幕派の動きを取り締まる役割を果たします。新選組は長州藩が集まっていた池田屋を急襲したことで有名になりました。新選組は大政奉還後、戊辰戦争で旧幕府軍とともに戦いましたが、甲州勝沼の戦いで敗れました。この戦いで近藤勇は捕らわれて処刑されました。
池田屋事件とは
池田屋事件とは新選組が有名になった事件です。池田屋は京都市の三条にある宿屋です。池田屋事件とは長州藩士が京都の街に火をつけ、天皇を長州に連れ去るという計画を実行しようとしていましたが、新選組が池田屋に突入したことによって防ぐことができた事件です。
新選組は幕末最強の剣客集団として知られ、京都の治安を守る最強部隊となりました。
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池田屋事件の影響
池田屋事件は新選組を有名にしただけでなく、長州藩を刺激することにもつながりました。池田屋事件をきっかけに長州藩は京都の御所に攻め上りました。この事件を禁門の変(蛤御門の変)といいます。この事件で長州藩は敗退しました。
数年後、江戸幕府は大政奉還で政権を返上します。戊辰戦争で旧幕府軍と新政府軍が戦いますが、新選組の局長近藤勇は甲州勝沼の戦いで捕らえられます。近藤を尋問したのは土佐藩の香川敬三らで、京都で苦しめられたことに対する報復として処刑されました。
間違いやすい!? 2回起きている寺田屋事件とは?
幕末の池田屋事件と間違えやすい事件として寺田屋事件が挙げられます。寺田屋事件は1862年と1866年の2回起こっています。
まず、1862年の寺田屋事件について取り上げます。薩摩藩主の父島津久光は公武合体派で、倒幕の意思はありませんでした。一方で、薩摩藩の過激派は諸藩の尊王派志士と共謀して、幕府寄りの関白九条尚忠と京都所司代坂井忠義を襲撃する計画を立てました。この計画は薩摩藩に知られ、島津久光によって過激派が鎮圧されました。
2回目の寺田屋事件は1866年に起こりました。伏見奉行が坂本龍馬を捕縛あるいは暗殺しようとしたために起こりました。この事件で、お龍が入浴中に幕府に包囲されていることを知り、裸で龍馬に知らせたことが有名になりました。お龍の機転によって龍馬は寺田屋から脱出することができました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は新選組が有名になるきっかけになった池田屋事件について取り上げました。池田屋事件は新選組が有名になった反面、大政奉還後に討幕派の恨みを買ったことが分かりました。近藤勇が処刑されたことで感じるかもしれません。池田屋事件と間違えやすい寺田屋事件も取り上げました。寺田屋事件は2回起こっていることから間違えやすいだけでなくややこしいと感じるかもしれません。
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