幕末を題材にしたドラマであれば、篤姫は将軍の大奥にいる人物の1人として登場することが多いです。幾島は篤姫のそばに仕えている女中としてよく登場します。『幾島vs本寿院勝敗を決めたのは意外な要因だった』では、一橋派は大奥内で不利な立場でした。篤姫らは不利な立場にありましたが、幾島は賄賂で見方を増やそうとする工作を行いました。
13代将軍徳川家定が死亡してからいったん大奥を離れますが、江戸城の無血開城に貢献するなど活躍しました。この記事では、2018年の大河ドラマ『西郷どん』では南野陽子が演じている幾島について取り上げます。具体的にはあまり知られていない生い立ちから江戸城の大奥に入るまでの過程と江戸城無血開城の時の幾島について取り上げます。
この記事の目次
幾島ってどんな女性
幾島は薩摩藩の江戸・大坂留守居役や側御用人の娘として生まれました。薩摩藩主の島津斉興の娘郁姫の御側女中になりました。郁姫は近衛忠煕の正室となり、京都で仕えました。郁姫が亡くなった後も京都の近衛家に仕えていました。
田舎姫の篤姫をファーストレディーにしたのは幾島だった
薩摩藩主の島津斉彬は次期将軍を一橋(徳川)慶喜にするために、篤姫を13代将軍徳川家定の御台所にします。当時、徳川家定は正室や側室を相次いで亡くしていたことから健康で丈夫な女性を求めていました。
家定は健康で丈夫な女性が多い薩摩藩から正室として迎えたいと考えるようになりました。大河ドラマ『西郷どん』では、幾島が健康で丈夫で運の強い女性として篤姫を家定に推していたシーンを思い出した人がいると思います。篤姫は江戸城の大奥に上がりますが、大奥の中では反発があったと考えられます。幾島が大奥の女中に賄賂を贈るなど工作をしました。その結果、篤姫は将軍徳川家定の御台所(ファーストレディー)になることができました。
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家定に情が移り、思うように働かない篤姫に幾島は
篤姫は薩摩藩主島津斉彬から次期将軍を徳川慶喜に指名するよう働きかけることを命令されていました。大奥はアンチ一橋派で、篤姫と幾島は不利な立場でしたが、幾島は賄賂を送るなど工作をすることで一橋派を増やそうとしていました。一方で、篤姫は徳川家定の生母本寿院に将軍継嗣問題の相談をします。相談したところ、家定と篤姫は若いから後継問題の相談をしなくてもよいと釘を刺されます。時が経つと、家定と篤姫の仲がよくなり、斉彬の命令に対して思うように働かなくなりました。幾島はこのような篤姫に対して叱るようにと近衛忠煕に手紙を書いたと言われています。
幾島のライバル南紀派の滝山とはどんな女性
幕末を題材にしたドラマであれば、大奥の実力者として滝山という女性が登場するのを見たことがあると思います。13代将軍徳川家定の将軍継嗣問題では本寿院とともに南紀派で、紀州の徳川慶福(のちの家茂)を推していました。滝山について、人物像についてはあまり知られていません。滝山について取り上げます。
1818年、滝山は大奥に上がりました。『大奥には入れ替えがあった?意外に知らない大奥』では、大奥の最高職の上臈年寄は二・三代の将軍に仕えたケースは珍しくありませんが、滝山については12代徳川家慶から15代徳川慶喜まで4代の将軍に仕えていました。江戸城開城後、現在の埼玉県の川口市で過ごしていたと言われています。
篤姫の頼みで病を推してまで官軍に手紙を届けた幾島
13代将軍徳川家定が死亡し、14代将軍に徳川家茂が就任すると、幾島は病気のため江戸城を去りました。しかし徳川家と薩摩藩の間で何か問題があれば江戸城に入って調整役を引き受けていました。旧幕府軍と新政府軍との間で戊辰戦争が起こり、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍を破ると、新政府軍が江戸城に迫っていました。篤姫は江戸での旧幕府軍と新政府軍との衝突を避けるために幾島を派遣、幾島は病を推して官軍に篤姫の手紙を届けました。結果、江戸は戦火にならず、無血開城となりました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
勝海舟と西郷隆盛との交渉が成立したから江戸城の無血開城につながったと考えてしまいますが、篤姫や幾島の働きも忘れてはいけないと思った次第です。無血開城と大奥との関係にも注目したいと思います。
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