島津久光の命令を破った事で、西郷どんは罪人として徳之島に流されます。
ここでは罪人とはいえ、まだ環境は過酷ではなかったのですが、
久光は、まだ扱いが手ぬるいと、さらなる厳罰を与えるように命じたので、
ついに薩摩領では最果ての沖永良部島への流罪になりました。
ここでの生活は過酷で、僅かな食事とふきっ晒しの牢獄で命の危険に晒されますが
その窮地を救った人物がいました、間切り横目の土持政照です。
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この記事の目次
薩摩藩士の子として島に生まれた土持政照
土持政照は、1834年に薩摩藩士、土持叶之丞政綱の子として生まれます。
母親の鶴は沖永良部の女性であり、アンゴと呼ばれる島妻でした。
当時の掟では、島の女性は島から出る事は出来ませんでしたが、
薩摩藩士と島妻の間に生まれた子供は、薩摩藩士の資格が与えられ
鹿児島に渡る事も出来ました。
この辺りは、愛加那と西郷どんの間に生まれた西郷菊次郎が、
維新後に西郷家に引き取られたのと同じです。
政綱には男子が無かったので、政照は鹿児島に引き取られて
薩摩藩士としての教育を受けますが、やがて政綱の正妻に男子が生まれたので
政綱は沖永良部に帰され、島役人として生活する事になります。
元々西郷どんと縁があった土持政照
政照が沖永良部で間切り横目という警察官の業務をしている頃に、
西郷どんが流されてくるのですが、実は二人はまんざら他人ではありませんでした。
というのも、政照の妻のマツは大久保利通の父、大久保利世の娘だったからです。
大久保利世は、1827年と1837年に二度、沖永良部代官付役を勤めていて、
その時に島妻の筆を娶っていました。
二人の間には、タケとマツの二女が生まれていて、その中のマツが、
政照に嫁いでいたのです。
政照はマツを通して大久保利世と縁続きであり、西郷どんの立身出世から
失脚までを知る立場にあったのです。
これは、過酷な島での生活を送る西郷どんにとって決定的に重要な縁でした。
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過酷な環境の西郷どんを救った政照の情
大久保一蔵と西郷どんが盟友という事もあり、
土持政照は西郷どんに最初からシンパシーを持っていたようです。
奄美大島での過酷な砂糖搾取を止めさせたという噂もあったかも知れません。
実際に会った西郷も謙虚な人柄で、少しも横柄な所はなく
「自分は罪人なのであまり構わないでくれ迷惑がかかる」と
逆に政照の立場を気にして好意もあまり受けない位でした。
しかし、西郷どんの環境は過酷であり、四畳半もないような
屋根しかない牢獄で、夏の暑さや台風時の暴風雨をしのがねばならず
食事も、麦と塩と水だけという粗末なものでした。
そうでなくても、島津久光に睨まれ罪人として再起など叶わない身であり、
絶望した西郷どんは病気になり、どんどんやせ衰えていきました。
(この御仁が罪人などとは信じられぬ、何かの間違いぢゃ
誤解が解けるまで何としても、この人を死なせてはならん)
政照は、バレれば自分まで処分される事は百も承知で島役人に賄賂を送り
病気の西郷を治療するという名目で、吹き晒しの牢獄から西郷どんを連れ出し
自宅に引き取ったのです。
久光の言いつけを逆手に取り、座敷牢で西郷を保護
土持家の人々の献身的な看護もあり、西郷どんは健康を回復します。
しかし、このまま吹き晒しの牢獄に戻せば、また病気になる事は目に見えていました。
そこで、政照は久光の言いつけであった
「四方を格子で囲った牢獄に入れて、四六時中見張りを立てよ」を逆手に取り
自宅に座敷牢を造り、家人を監視役として厳しく見張る事にします。
こうして、西郷どんは衰弱死の窮地を免れる事になります。
次第に薩摩からの監視が緩んでくると、政照は
「囚人が運動不足なので、健康の為運動させたい」として座敷牢から連れ出し
野外を歩かせるなどします。
しかし散歩程度では運動不足は解消できず、西郷どんは一転して太りだし
今日知られるような肥満したフォルムになったのです。
西郷どんと政照は義兄弟の契りを結ぶ
西郷どんは政照の献身と厚遇に深く感謝し義兄弟の契りを結びました。
政照は義兄になった西郷に、島役人としての心得を教えて下さいと頼むと
西郷は、与人役大体、横目役大体という書を書いて与え、
役人の心構えと警察官としての心得を教授したそうです。
そこには、良い役人が仕事をすれば百姓も安心して暮らせるが、
悪い役人が出ると、その害は台風よりも酷くなると、常に百姓の気持ちを考えて
仕事に励む事や、警察官の仕事は、犯罪者を捕まえる事ではなく、
罪人を出さない事だと、島民の善導教化を重視した内容が書かれています。
また、西郷は頻繁に台風被害で飢饉になる島の為に社倉を設けて
普段から食糧を共同で備蓄するように勧める「社倉趣意書」を著わしています。
政照はこれを実践して明治3年に沖永良部社倉を創設し、
飢饉に備えると共に、蔵の穀物を運用して金に換え、貧しい人々を救済したり、
病院を立てたり、学資金にしたりと大いに活用したそうです。
幕末ライターkawausoの独り言
一説によると、吹きさらしの牢獄や、粗末な食事、四六時中監視をつけるという
過酷な対応は、久光からの刺客を警戒して土持政照が考案したという話もあります。
敢えて過酷な状況に西郷どんを置く事で、刺客が
「これなら間もなく死ぬのであえて殺す必要はない」と久光に報告するように
仕向けたというのです。
真偽は定かではありませんが、西郷どん復帰をあれほど嫌がった久光の事なので
敢えて殺さないにしても、島で衰弱死する事を願ったという事はあるかも知れません。
しかし西郷どんは久光の圧力にも関わらず死にませんでした。
死にたがりの西郷どんは、この時に自分を生かそうとしている天の意志を感じ
以来、天に生かされる間は、決して自殺などするまいと決意しました。
後年の西南戦争でも、自決を拒否し銃弾を股に受けて動けなくなってから
部下に首を討たせています。
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